ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

通りすがり2さんへの返信。

通りすがり2 2018-12-13 22:10:19

 


私たちがまともだと思う知性の使い方を教わる機会が少ないことに問題があるんじゃないですかね。多忙感ムンムンの中じゃあ正気なこと考える気にもならないし、街を歩けばそこら中にkawaii鎮静剤が転がってるし。ファウスト的でありながら、限定された知性のせいで低い次元の快楽に浸ってるというか。結局みんな頭と身体使ってマスッてるだけじゃんって話ですけど。

 

他律的オナニーか自律的オナニーかって話なんですかね。私は倫理的でありさえすればどちらでも構わないと思いますけど、そもそもカントは他律性の中に倫理を見ないですよね。そこがいつもしっくりこないんです。果たして少しの傾向性の影響を受けずに成立した自律なんてあるのかと。菩薩の大悲を人間に成し得るのかって話しじゃないですか。良いことしたら気持ちいいから良いことするってので十分じゃないですか?そこで自利と利他が仲直りするわけじゃないですか。

 

カントは納得しないと思いますが。義務にのみ専心するなんて土台ハードルが高すぎません?そういったものは泥にまみれながら少しずつ明らかになってくものだと思いますし。だから汚れる自分も含め肯定します。もちろんいつだって反省は求められますが。エロスって言葉久しぶりに思い出しました。

 

ショーペンハウアーは幸福論書きながらも、性欲を鎮めることができないと嘆いていたようです。カントはどうですかね?幸福に死ねたんですかね。疲れたのでここまでにしますね。 耳蝉さんそろそろ山下る時じゃないですか!

 

傾向性の影響を受けずに成立した自律というのはアイデンティティとか考え方とか振る舞いも含めてそれは無理ですけど自律ではなく実存を軸にした自律という場合、その実存を自分が実存するという実存者として顕在化させることで可能になると思うんですけど、今後エントリーにも書きますけどもこの自律とか実存の話って神学と凄く近いところにあったりなんかして、結局、カントやヘーゲルショーペンハウエルキルケゴールニーチェやらもキリスト的なものという概念が所与にあってそこからニヒリズムだの孤独だの超人だのみたいな概念に行きついたりなんかするっていう傾向があるのを見ると当然なんですが日本人って西洋的な神学に疎いですよね。

 

まぁそりゃ当然でミッション系のスクールにでも通わない限りキリスト教についてとか教わりませんし宗教観とかもあえて言えば宗教というよりかはインフラとしての仏教とか神道っていうところですよね。

 

で、まぁ改めてというか昔こういう神学系を勉強しようと思って色々買ったんですけど放置になっててやらなくなって今ちょうどこういう虚しさとか実存を考える上で凄く関連性が出てきたというかキルケゴールについて色々な哲学者や神学者が書いている本の中になかなか「おお!」と思えるものがありましてあとまぁヴィクトール・フランクルなんかも書いてるんですけど快楽って追求すれば追及するほど疲れるっていうか飢餓感に苛まれるみたいなことなんですけどもちろん何が良くて何が幸せなのか?ってそれは多分どこにも書いてないとは思うんですけど自律と他律が統合されるっていうところが所謂実存から実存をするものへっていうプロセスで行われるんじゃないか?って思ってるんですよね。

 

レヴィナスが書いていることでもあるんですけど僕が思うのはそういう論理的なものではなくてプロセスにおいて介在する何か?っていうものに凄く興味があるんですよね。そこをまぁ雑に書いてしまうと神学なんかだとそれを神だとかって言ったりもするんですけど所謂普通に思う神とは全然違う神ですよね。そういうところの感じがマイスター・エックハルトの思想なんかにあったりして、今ちょうど読んでいる最中なんですけど恐らく僕が帰結するところは神学でも神秘主義でもなくてただの納得だと思うんですけど、そこでいかに実存と倫理を両立させた実存者として生きるか?っていうところに繋がると思うんですよね。

 

ただそれが正当であるのか?とか意味があるのか?っていうのはまた別問題で結局なんていうか立脚点は非常に学問的なんだけどカッコつきの実存とかっていうことではなく普段の自分というめちゃめちゃパーソナルなところにしか帰結しない話なんであって、それを受け取って生きるということが実存者ということでもあると同時に意味や理由などを求めようとするとその非学問性であったりあまりにも私的過ぎるが故に分析対象にすらならないというようなどうしようもない沈黙をもたらすものだと思うんですよね。

 

だからそこでまぁしつこいんですけど常にニヒリズムの問題っていうのがあって、あとはまぁ理由や意味などを問うことができないところからくるシニシズムや情報の蓄積の末のポストモダン的状況っていうかまぁ相対主義的なことであったりするんですよね。

 

そこで僕はレオ・シュトラウスなんかを引き合いに出してプレモダンな感覚としての善というのを絶対的なものとして信仰するべきだなんて思ってきてはいたんですが、仮にそこで善やら善のGoodからoを引いてGodでもなんでもいいんですけどそれへの信仰があったとしても常にニヒリズムは付きまとうというか、かといってもそれっていうのは生きる価値無し!みたいなことではなくてすごくニュートラルなニヒリズムなんだけど普通大体そんなもんで哲学やってようがやってまいが大体そんなもんでしょうっていうことで片付く話なんですけど問わずにはいられないというもどかしさっていうんですかね。

 

もちろんそこで神学とかを勉強して急に信仰に目覚めた!とか神秘主義に目覚めるってことはなくて、ようは人類がどうやってこういうニヒリズムと付き合ってきたのか?っていう歴史ですよね。そこでまぁ個人的にそういうニヒリズムなどを経たうえでのカール・バルトぐらいの世代の神学者達の話が結構気になったりするっていうのが最近の自分の感じなんですけどね。

 

ショーペンハウエルとかカントが幸福に死ねたかは分からないですけど僕はやっぱり幸福に死にたいなって思うわけなんですよね。ニヒリズムから出られずにそれと常にある倦怠感というか退屈から逃れられないっていう、そこから逃れようとして刺激に走ってその刺激にも慣れてまた退屈に戻ってくるっていうようなループから脱出しない限り刹那的な幸福や刺激があっても恐らく幸福には死ねないだろうなって思うんですよね。そこをいかに超越者とか神とか仏のようなものを出してこないでしかしながら極めて神的なものと同一化するというようなそれが無なのか有なのか分かりませんがそれを実感するというよりかは理屈だけでも押さえておきたいなって思うんですよね。

 

そんなわけで山籠もりはまだまだ続きそうです(笑)改めて実存について考えたりすると本当に自分の未熟さを自覚するんですよね。仏教的な悟りとか哲学的な理性とかプラトニズムとかディオニュソスのようなdeus ex machinaを使ってただ誤魔化してきただけなんじゃないか?って凄く思うんですよね。だからまぁ10月上旬からの調子の悪さから実存について考えるようになったというのもまた成長のきっかけを掴んだなと思って今はそれを掴むことに必死な感じですね。ブレイクスルーがありそうだったらもう徹底的にディグるしかないですよね。あとまぁあれですね、ニヒリズムも受け入れるみたいな立場もありますけどこれもまぁ無しですよね。

 

まぁこれって凄く面白い話題ですよね。私的過ぎて学問に成りえないのに方法論や論理や歴史は学問の中にあったり宗教学の中にあったりするんですよね。それを学問に還元することなくパーソナルな問題として考えるっていうのが哲学だったりしてもでももはやそれは学問的な哲学ではなくてただの悩みなんですよね。神とか超越みたいな大きいところから個人の悩みみたいな超絶的にミクロ過ぎるところの両者のコントラストというか大小のダイナミズムが好きですね。大げさな話じゃないんだけど突き詰めていくと神学とかにも繋がるってやっぱり面白いですよね。

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