ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

キリスト教に目覚めていく私。その4。

先月の頭からずーっと読書三昧なんだけどそろそろ二か月目突入!っていうまぁこれデフォになったら精神的に楽だなっていうね、まぁ読書が基本の生活ってまぁ前にやってたっつーかずーっとそうだったわけでまぁやっぱこの生活スタイルが合ってるんだと思うんだけどね。ただまぁあれだよね、神学書とかにも書いてあるっていうかまぁ議論でよくあるんだけど救済っつってまぁ個人の例えば俺がニヒリズムに飲み込まれそうになるだとかなんだとかまぁそこで救いの手が差し伸べられたとかっていう感じになり過ぎると本質を見失うっていうか、教義っつーとあれだけどまぁ神の理論っていうのが個人の救済っつーしかも凄く個人的な悪く言えば都合のいい感じの救済になると矮小化っつーかそりゃ違うだろっていうことになるんだよね。

 

まぁあれだよね、個人的に救いになったっていうのは理論と関係なしに例えばなんつーか趣味が見つかった!とか彼女ができた!とかっていうんで精神的に救われてるっていうか人生変わった!みたいになるっていうまぁ個人の意味論の領域における作用だよね。ただまぁそれは別に趣味が見つかるとか彼女ができるということの客観性っつーとあれだけど別にそれが規定される意味にはならないじゃん?あくまですんげーパーソナルな私的なこととして心理としてはそういう風に作用してるってことなわけでまぁ別にそれは時が経てば変わるかもしれないし彼女と別れるかもしれないし趣味に飽きるかもしれないわけでまぁそういう個人の事情ってのは理論化されないよねっていうかまぁ理論化っていうと変だけどまぁパーソナルマターってことですよね。

 

まぁそこがあれなんだよな、実際のリアル宗教の論理とか理論とある種のカルトとの決定的な差でもあるよね。カルトってのはまぁ基本的に教祖の思い付きが大半だろうけどまぁそういう心理を巧みに操る洗脳とか個人的な救いっていうレベルの思い込みだからね。んでまぁリアル宗教の場合、戒律とかはともかくまぁ一見直感に反するようなことも色々あるけど研究していく中で意味が分かってくるみたいな深遠なものだよね。あ、んであんま今は普段みたいな長文書かないつもりなんだけどまぁなんつーか宗教的理解とかってまぁなんだろう、数学にもセンスがあるとかっていうのと同じ感じでセンスが必要とされるよね。

 

シュライエルマッハーってまだ読んでないけどまぁ恐らくそのシュライエルマッハーが言うところの直感とかってのはまぁそのままセンスって言えると思うんだよね。哲学もまぁそうだよね。違う言葉で言えば勘が良いとかってことになるよね。数学とかでも泥臭く本を隅から隅まで読んでめちゃめちゃ考えて研究して理解できるようになったっつーよりパッと見て分かっちゃうみたいな、まぁそれって所謂天才だけど文系にもそういうのはあるよね。もちろんそれは基礎知識とかにも依存するんだけどただまぁその分野について全く知らなくてもある種の奥義みたいなコアの部分がすぐ分かっちゃう人っているよね。

 

かといっても別に雑に乱読すればいいって話でもないんだけどまぁただそれは生まれつきのものもあるけど色々やっていく中で磨かれるセンスってのもあるよね。自明だけど知識とかって今はグーグル先生に聞けばなんでも分かるから博識みたいなのがそんなに価値が無くなったみたいな考え方あるけどまぁ合ってるところもあるけどまぁ基本的にあれですよね、まぁそのオワコン理論で言うところの自分の世界を作るっていうところでの言わば主観ってのは当然構成される要素の中の一つとして知識ってのがあるじゃん?他にはまぁ経験とか記憶とか色々あるだろうけどまぁ例えばね、ざっくり言うと数学的な感覚をめちゃめちゃ磨いた人が見るなんだろうな、まぁ思いつかないけど(笑)まぁその数学的知識がある中で見える世界って無いのとじゃ違ってくるじゃん?例えば数学の定理とかはググればでてくるっつっても知識が主観とか認識に及ぼす影響だよね。

 

例えばまぁ今の俺で言えばまだやり始めだけどもキリスト教を主に研究していく中で色々と蓄積された知識ってのがある中で例えばなんかの映画を見てそれが宗教的なメタファーだったりするっていうのが例えばまぁそれがめちゃめちゃ明らかな場合、知識が無くても分かるけど知識が無いと分からないものもあるから映画鑑賞っつーこと自体に影響を及ぼすわけだよね。例えばまぁその映画が作られた国とかがめっちゃクリスチャンが多い国とかだったら大体のその国の人は分かるけどキリスト教全然分からん!って人には「え?」っていう感じになるとかあとまぁ「え?」じゃないけどまぁその重要なメタファーに気がつかないから映画が凡庸に感じられるとかね、まぁただ知らぬが仏とかIgnorance is Blissって言葉にもあるように知らないほうが良かったっつー知識もあるよね。

 

無知のほうが幸せなことが多くてもまぁ知識を求めるってのがエロスですよね。まぁあとあれですよ、例えばまぁそこは文化ってところだけど例えばまぁめちゃめちゃ日本のティピカルな学校っつーコンテキストがあるアニメとかを見るときに日本人以外っつーと語弊があるけどそういう文化圏に育ってない例えばまぁアメリカでもいいけどアメリカのアニメオタクとかならともかくまぁ一般のアメリカ人が見てもそのアニメで描かれる学校あるあるが理解できないっていうまぁそれってざっくり言えばさっき書いた文化の違いっつーところなんだけどそこもまぁ言わば知識とかっていうところだよね。文化を知識とするかどうかっつーのはあるけどまぁようは主観に影響を及ぼす知識とか文化っつーところですよね。ようは何が言いたいのか?っつーと日本の学校あるあるっていうのもググれば分かるじゃんっていうのとは違うじゃん?

 

ググれば分かるから文化について知らなくてもいいってことにはならないよね。むしろ色んな文化を体感してなくても精通してたほうがあらゆることの理解の仕方が深まるよね。何しろそれで一番良いのは卑屈で排他的なナショナリズムに陥らないっていうことだよね。卑屈なナショナリズムに陥るのってやっぱりパースペクティヴの狭さってのがあるんだよね。そいつの地頭ってのもあるけどまぁ圧倒的に知識が無いっていうか文化を知らないっていうね、んで自国の文化っつってもその文化の理解も怪しいけどまぁそこに依拠してそれ以外認めないみたいなね、まぁ一般論になるけどリベラルアーツ
重要なところってまぁここだよね。ググればわかるじゃなくて自由になるための知識っていうかさ、それがあると世界観広がるから何しろそれは認識に影響を及ぼすものだから生活している中であるのとないのとでは全然違うっていうね。

 

だいぶ前に書いた気がするけど事実かどうかは別として思考実験的に測度をどんくらいにするか?っていこともあるんだけど全ての瞬間に色んなものが分岐してるっていうさ、分かりやすく言うと外歩いててなんかを落として拾ったっていうのと落として気がつかなくて拾わなかったっつーパラレルな世界があるっていうかまぁそれがパラレルっつーレベルじゃなくてもう無限小のレベルで色々と分岐してるっていうさ、実際そうかは別としてまぁそういう考え方もあるってことだよね。んでまぁそれは別に知識がどうのっつーレベルじゃなくて単純に腕がかゆくなったから掻いたみたいなどうでもいいことですらもまぁかゆくならなかったとかね、かゆくならなかったワールドが存在するみたいな、まぁ実際そうかはともかくとして思考実験としてそういうのが成り立つっていうさ、そこでまぁ一気に飛躍して認識っつーところになるんだけどまぁすげー重要じゃん?

 

それを知ってた知らなかったで分岐する世界とか認識っていうさ、知ってれば凄い感動があったかもしれないし良い出会いとかそれこそラッキーなことに巡り合えた!とかさ、まぁ別にそれは知らなくても知らないワールドがあってまぁそこで知らなかったからこそラッキーなことに出会えたなんてこともあるわけなんだけどまぁなんつったらいいのかね、まぁとりあえず知識があると世界の認識が変わりますよねっていうことだよね。細かいところでもそれが何気にすんげートリビア的なことでも実はそれが世界認識っつー人間である限り認識に依拠せざるを得ないからこそトリビアルな知識であっても気がつかないレベルでそれは世界形成に影響を及ぼすっていうことだよね。

 

まぁそれをすげー大枠で言うとアルチュセールっぽいイデオロギー論になるわな。ただそこで特に俺が感嘆する宗教的認識における無作為性っていうのがさ、それはまぁ東洋的でもあるっていうかまぁ例えば禅的認識とかっつーのもまぁ認識すらも介在しない無作為の認識とか行為っていう所作としてそれがアクションっていう形で世界に顕在化するっていうようなね、それはもう行為というより禅的なものが人間という媒介を通して顕在化したというようなね、そこをジーザス的に言えばジーザスのアクション自体が神のロゴスの顕在化なんだっていうことになるんだけど最近シモーヌ・ヴェイユの本とかをキリスト関係っつーことで読んでるんだけどっつーか数学期には兄アンドレの本なり自伝を読んでて今は妹のシモーヌの本を読んでるんだとかって思うと感慨深い感じがするんだけどまぁそれはともかく詳しく書くと面倒だから簡単に書くけどシモーヌ的な宗教的認識とかもたまたまシモーヌの著作を読んだ鈴木大拙が西洋人の割にすげー東洋的な感じがするなーっていうような印象を持ったっつーところでのある種の普遍性なんだよね。

 

西洋的東洋的とかっていう境界線が無い認識とか行為の普遍性だよね。それをキリスト的と言えばキリスト教というコンテキストの中で理解されたり認識されたり喧伝されるっていうところなんだけどそこのコンテキストが禅なり仏教になるとそれは禅的とか仏教的って言われるんだけど無作為の行為の現前性という意味ではコンテキストの先立ってそれが顕在化するっていう、んでまぁそれが顕在化した後にコンテキスト的な解釈とかそれが成されたバックグラウンドみたいなところでの文化的だったりする意味論とかが生まれてそれがキリスト教的とか禅的とかって言われるんだけどしつこいようだけどまぁ普遍性という意味だと宗教性すらもどうでもいいっていうところなんだよね。ただ人間がその無作為の行為というのを認識したりそれを行うために必要とされるのが宗教的知識だったり認識だったりするっていうことだよね。

 

まぁなんだろう、西田哲学で言うところの純粋経験とかまぁそれは無作為の行為を成したときに発生する経験とかあとはまぁ客観的な主体の在り方としての絶対矛盾的自己同一ってことだったりするよね。そもそも西田がそういう哲学理論を打ち出すまでの禅とか仏教っていうのは明らかに自明だけどキリスト教に関しても凄く関心を持っていたっていうところが示唆的だと思うんだよね。

 

まぁようはあれですよ、例えばまぁ今また聖書ってことでスピノザの神学政治論とかを読み直してるんだけどまぁ今読んでる最中だからなんとも言えないんだけどそもそもの聖書の分析においてそれがスピノザっぽく何段階を経るような論法というか1は何々で2は何々で従って3であるから4において神への服従となるみたいな論理的発想とか分析的発想っていうのがそもそも間違いっつーとあれだけどもはやもうそれは聖書分析になっていないっていうことなんだよね。

 

まぁもちろんそれとは別にスピノザ的な哲学を知るとか聖書を通してっつーかまぁ神学政治論ってほぼ聖書論みたいなもんだから聖書論の一つとして読むのは面白いしそこから出されるいくつかの帰結ってのもそりゃ示唆的になるとは思うんだけどそもそもまぁ俺の話になるけどなんで俺がジーザスにここまで価値を見出してるのか?っていうのがさ、まぁボンヘッファーとかは旧約聖書からの地続きでっていうかむしろ旧約をベースとして新約も理解しなきゃいけないって言ってたとかってまぁそりゃ色々な立場があるんだけど俺がジーザスに神を見出すっていうまぁ最近ジーザスの受肉こそが救いなんだ!って書いてるけどそれはジーザスの行為なり言葉っつーまぁ総称してそれを神のロゴスって言ってもいいと思うんだけどそれに置いてのロゴスの顕在化において無作為の行為というのが徹底されてるっつーところなんだよね。

 

それが神的要素なんだっていうまぁそれだけじゃないんだけどそこに神的要素を見出せるわけだよね。愛というのは神的属性だって前に書いたけど愛という概念以前に概念が介在する前から直接性においてそれが無作為の行為として顕在化するんだけど後にそれを人間の言葉で言えば愛といえるっていうことなんだけどそれは神のロゴスである無作為の行為の直接性っていうところに尽きるんだよね。カントの定言命法っつーのもキリスト教的無作為性っていうのを換骨奪胎して宗教性とか神っつー概念を無くした倫理なんであって後に神学者なんかがネオカント派とかっつってカント的哲学に神学を立脚させたりするっつーのもまぁつまりはほとんどカント的なものというのが極めて神学的なものだからなんだよねってまぁそこはまだ色々読んでる最中だからまぁそうなんだろうって思ってるっつーレベルなんだけどね。

 

前に散々書いたけどまぁようはボランティアにしてもまぁボランティア自体をディスるつもりはないんだけど例えばそれがアメリカなんかだと課外活動としてカウントされるから大学入学のためにやるとかってのはもはや利己的行為だよね。まぁそんなの結果として善いことが行われていれば細かいところなんていいじゃん!ってところでまぁ実際そうなんだけどまぁ例えば電車でお年寄りがいるのに席を譲らないっていうかまぁそういうシーンはよく見られると思うんですけどもそこで席を譲ろうと思うときに例えばそれは善の行為で良いカルマになるとかお天道様は見ているから良いリターンがあるとか善行を積めば来世で良いことがあるとか天国に行けるとか救済の対象になるとかまぁそういう色んな雑多な概念が介在した時点でもうそれは善じゃないんだよね。まぁいいんですよ。動機がなんであれお年寄りに席を譲るってのはまぁ当然のことなわけだから。

 

ただそれを善行をしよう!とかっつって思ってやったらもうそれは利他的に見える利己的行為なんだっつーことだよね。そこで無作為性が介在するとすればそれは変な例えになるけど蚊が飛んでて嫌だから避けるとか頭を動かしたり手を動かすというよりかは嫌だなーっつー以前に自然に体が動いちゃうっていうことだよね。

 

本能的っつーことでまぁ性欲もそうですよね。うわーすんげーエロい姉ちゃんだな!とか崇拝対象になりそうなご利益がありそうなJKの生足だな!とかって思ってパッと見ちゃうっつーところはもう本能的なものじゃん?インスティンクトがドライヴするっつーことですよね。もちろんまぁそれは善と何の関係も無いけどただまぁ定言的な善ってのはそういうことだよね。JKの生足を意識する前に見てしまうっていう本能と同じような感じで善の行為をしてしまうっていうところだよね。

 

それはその無作為っつーところで「善きサマリア人のたとえ」で出てくる律法学者とジーザスのやり取りだよね。オーセンティックな解釈とかまぁ色々な解釈があるわけなんだけどまぁ俺的に思うのがまさにその無作為性ってことで律法学者がジーザスにんじゃあその愛しなさいっつー隣人ってどう定義するの?って言ってる時点でもうそれはパリサイ的な内なるスポンテニアスな行為として善なり愛するっていうところが出てこない律法的なことに依拠した考え方でもうそれがすでに自然に出てこない時点でアウトだし律法的に考えてる時点でアウトだよっていうまぁジーザスはアウトとは言ってないけどまぁそこでただそれは律法学者に皮肉を言ったというよりかは律法じゃないんだよね。

 

つまりはって諭したっていう解釈もできるっていうまぁ根っこからパリサイ的であっても内なる衝動性というレベルで善やら愛が出てくるようになる余地はあるんだよっつー救いの教えでもあるっていうところなんだけどまぁ色々と諸説があるのは置いておいて例えばそれをキリスト教的とかめっちゃキリスト教なり聖書を研究した結果、そういう無作為の行いができるようになったっつー修行の成果としてそういう認識なり自然に善や愛がポロポロ出てくるみたいな状態に至ることもできるんだけど全くキリスト教とか宗教とか関係ないレベルで例えば「あの人は聖人だ!」とかって言われる場合もあるっていうのが例えばよくあるのが知能指数が低いんだけど低いが故に行為が純粋で汚れていないというか利他的だの利己的だの善だのっていうのを介在せずに愛がそのままむき出しで行動そのものになるような人とかって比喩的に聖人って言われたりするじゃん?

 

それは例えば普通の知能を持ってたら自我だのなんだのっつーのに飲み込まれて純粋な愛の行為とか善の行為をするということがめちゃめちゃ困難になってしまうっていうところで知能指数が低いが故にそういうのが介在しないで愛とか善が純粋な行為として出てくるっていうところに神聖なものを感じるっつーところだよね。

 

まぁ別にこれは比喩的な美談だし知能指数が低いが故に欲望がむき出しになってレイプしまくっちゃうみたいなこともあるわけで知能指数が低い=聖人ではないしまぁそれ言い出すと別に知能指数云々関係なくそりゃ人によるでしょっていうところなんだけどまぁ比喩的に作為の不在っていうところでの神聖さを表すものとしてそういう話があったりするよね。まぁ別に自我が無いということじゃないんだけどまぁ純粋であるが故に天使だって言われたりするっつーのもまぁ端的にそれは神聖さがその肉を通して顕在化しているっていうところにあるわけでしょ。

 

なんかまぁお話とか伝説とか昔話とかでよくあるよねって例えが思いつかないんだけどまぁ話の類型としてめっちゃ修行をして良い行いをしようとして苦労してる人っつーか理的過ぎて色んな迷いとか結局利己的な行為に結実しちゃうみたいな皮肉があったりして、んでまぁ一方で頭が足りない子とされる子は本とかも全く読めないっつーか読むことができないぐらい知能指数は低いんだけど行う行為があたかも修行をしまくって悟りを開いた人のようなことを自然にしてしまうっていうようなさ、あとまぁ日本昔話とかでも拾った子供を育てたら頭が足りない子だったんだけどつーか今調べたら「はなたれ小僧さま」っつー話だったわ。まぁようはそういう神的な存在というのが頭が足りない謎の子として現れるっていうモチーフは古今東西あるよねって話だよね。そこでの神性を表すものとして人間的な汚れたエゴが無い純粋な存在としてシンボリックにそれが頭が足りない子とかっていう描かれ方をするっていうことだよね。

 

あとまぁ知能指数云々じゃなくてまぁ単なるキチガイなんだけど例えば絵を描かせたらどっからそんなもんが来るの?っていうようなものを書くとかまぁあと音楽とかね、ただまぁそれ以外は完全に狂っているっていうか普段はもう保護者がいないと生活が成り立たないレベルなんだけどなんかに異様な能力を発揮するみたいなのも神性的な扱いをされたりする場合もあるよね。アウトサイダーアートとかがPCを考慮してビジョナリーとかって呼ばれるっつーのも端的にその幻視みたいなものが精神の異常でそうなってるっていうのは自明ながらも神的なものからのビジョンだっていうような宗教的な意味合いをどうしても帯びてくるわけだよね。

 

オットーの本まだ読んでないんだけどまぁようはヌミノーゼ的なものだよねっつってもまぁヌミノーゼってのはあくまでも主観的に捉えられるというか感じられるものっていうまぁそれは錯覚も含めてそうなんだけどそこでの本質的なイデア性とドクサ的な低次の感覚っていうところも含めてまぁそれはようは認知作用なわけでそれがイデア的であるのかドクサ的であるのか?っていうのは客観的には分からないんだけどそういう主客を超えたところに超越性ってのがあるわけだよね。

 

まぁ基本的にヤスパースとかが言ってる包括者ってことなんだけど基本的にアルチュセールじゃないけどイデオロギーに外は無いわけでそれは全く主観についても同じだよね。客観的なデータとか現象ということでも当然それは客観的な現象というのを主観で捉えるという以上、そもそも認識が介在しない認識というのは実質無いわけで主客の関係性ではない認識というのはデウス・エクス・マキナ的なものを措定するしかないっていうかとりあえず思考停止ではないんだけど無神論的な形而上学的神っていうのかね、宗教性を帯びないまぁ無宗教の神みたいなところだよね。

 

でもまぁ三位一体における神ではなくてジーザスの父の神っていうのはこういう理解しかできないかあとは否定神学的なブラフマンとか禅的無みたいなあとはまぁエックハルトだったりベーメ的なものであったりするわけだよね。ただそれは形而上学なわけで議論の余地が無いというわけじゃないんだけどそこでまぁ普遍的ながらも宗教性を帯びたものとしてジーザスっていうロゴスが出てくるおかげで言わば宗教が実践的な知への愛とか真理への愛っていうようなベクトルを人間に与える契機を与えてくれているっていうことになるわけで、そこがまぁ俺がジーザスの受肉自体が救いだっていうのもそういうところなんだよね。

 

仏教にしてもなんでお経がありがたいのか?ってそれは釈迦の悟りがエクリチュール化してるからだよね。言わば真理なんでそれはドクサだらけの人間にとって尊いものになるわけだ。それがもう必然的に神性を帯びるというのも神云々以前の真理自体の神性っていうことになるんだよね。もちろん聖なるものとか神的なものってのはロゴス的な契機を介在するような真理には限らなくてまぁそれこそカントで言うところの崇高なものとかってのはそれは自然だったり現象だったり神とか宗教関係ないんだけど現象として神秘的に感じられるような物理現象とか神の言語か?って思うような構造を持った数式とかだよね。

 

カントールなんかがよく言われるのは本人はめちゃめちゃ宗教的な人間だからこそそういう認識からああいう数学が生まれてきたっていうことなんだけどただ別にそのカントール的数学っていうアウトプットの所産=神の証明なわけじゃなくてそれは別に宗教とか関係ない客観的事実なんだけどただまぁコンテキスト的なこともさることながらヌミノーゼ的なものを感じざるを得ないみたいな、まぁ普段超理詰めなんだけど神の存在みたいなのをたまに感じたりする物理学者とか数学者とかっているわけでしょ。

 

まぁなんだろうアンドレヴェイユは妹の影響なのかバガヴァッド・ギーターが愛読書だったらしいしあとまぁ仏教的とかまぁ東洋思想的なものに普遍性を感じていたシュレーディンガーとかボーアとかってのも神話の中に抽象化された真理みたいなのを見出していたっていうそれはまぁ東洋思想かぶれというよりかは全く物理学と関係なさそうなものが物理学にぴったりとハマるような世界観の神話なりなんなりがあって感嘆していたっていうところだと思うんだよね。

 

まぁ当然これってシンボリックなものとしての神話っていうことなわけで神話に出てくる事柄が現実に起こっていたっていう全部事実なんだっつー解釈とは程遠いのは言うまでもないよね。そりゃもう聖書だって当然そうなわけでだからまぁ聖書を旧約とか新約問わずに全部を神の言葉だとリテラルに解釈するなんてのはドクサだらけの低次元の聖書的なものとは程遠い異様なものになるわけだよね。

 

特にジーザスにおいてはそれを分別して公理とするような理解に反するというか、まぁ禅とかもそうじゃないですか?禅問答の抽象性ってのはまさにそれだよね。ということはこういうことがこうなるからこうなのですね?っていうような理詰めの理解とは程遠いところに悟りってのがあるんだよね。それがジーザスの場合、認識とか悟りというよりかは行為というところに現れていてなおかつああいう悲劇という受難があったっていうところにポイントがあるわけでっつってもまぁそれだけじゃないんだけどそれがまぁ神のロゴスたる所以だと思うんだよね。

 

あとまぁなんつーか前にも書いたけどキリスト教的考え方ってのもまぁようはブルドーザーみたいにその考えが来たからそれが絶対で他は絶対間違ってるなんつってお寺とか神社をぶっ壊すっていうことにはならなくて普遍的な宗教とそれを実践したり根付かせるというか根付いていくというところはもう文化なわけじゃん?そこでの文化と宗教っつー関係性だよね。

 

で、そこは前に書いたと思うけどスペインに侵略されてキリスト教圏になった南米なんかでも土着の元々の古い宗教観とか文化ってのは根絶されてなくてっていうかそれはちゃんと残っててただそれがキリスト教と混ざっているっていうような文化的な宗教ということだよね。ハイブリッドと言えばそうなんだけどでもそもそもブルドーザーで全部土着の文化をぶっ壊すような宗教はもはや宗教じゃないわけでそこは文化との共存ってのが必要条件として含まれてるよね。

 

で、まぁもちろん色々読んでいって今後はまた考え方が変わるかもしれないけどまぁ俺の今のこういうキリスト教の考え方っつーのも自分史で言えば仏教はまぁかじった程度だけど哲学っつーのもありつつまぁ東洋的な理解というかさ、それはもう染みついてる東洋的な理解だよね。それがこないだも書いたけど理詰めでいっても神道とか仏教とはぶつからないっていうか、そもそも日本における神道とか仏教ってのは宗教っつーよりかは文化的な面が強いわけでしょ?

 

で、特に矛盾しないんだよね。ただまぁどこに帰依するか?っていうところなんだけどそもそもの真理の普遍性という点において特にとりわけ仏教だのキリスト教的だのっていうことをあえて強調する必要もなく自然に論理が調和するっていうような、もちろんそれは自分の認知的整合性がバランスを取ろうとしてそうなってるっつー面はあるんだろうけどでも俺の予想だとキリスト教を詰めていっても偏屈な意味での原理主義にはならんだろうなっていうそこが真理の多元性なんだよね。共存するっていう多様性ではなくて様々な原理が存在するんだけどそれが真理である以上、真理同士がぶつからないっていう多元性だよね。そもそもそういう意味で真理ってのはどんな角度からアプローチしてもそれに行く着くっていうようなそれこそヌミノーゼ的なものなわけじゃん?

 

特に仏教徒でも東洋思想にかぶれているわけでもないと思われるアンドレヴェイユとかシュレーディンガーとかボーアなんかが宗教性抜きにして東洋思想というかあとまぁ神話とかに真理性を感じるというようなことだよね。そこが物事の成り立ちとかいうところだと逆にそれは科学の領域なんで象徴的な類似という意味での神話との親和性ってのが見いだされる可能性は高いし主に認識に立脚するような仏教なんかでもそれは顕著だと思うんだけどそこでキリスト教となると認識もそうなんだけど主体となるものが行為じゃん?もちろん認識も行為で生きるということが修行だったりもするんだけどそこでのキリスト教ってのはその普遍性とか真理を行為によって顕在化させるっていうことがあるんだよね。ようは他人とか社会とか教会とか敵対者っていうような政治性ってのが必然的に人間が肉をもってして生きるというところから出てくるんだよね。

 

そういう意味でのまぁアリストテレスが言うところの人間は政治的な生き物であるっていうようなところだよね。ただそこでまぁ政治性を帯びるからこそ党派性ってのが当然出てくるし真理から疎外された組織性ってのが出てくるわけでかといっても修道院みたいなのを建ててそういうのと関わり合うこともないように真理を追究するっつーのもまぁワークしないというかまぁそれは一つの方法としてあるんだけどキリスト教が教えるところではやっぱり社会でのまぁようは普通に生きていく中での実践なんだよね。その中でいかに神のロゴスに即した行為を体現できるか?っていうところなんだよね。

 

で、それはパリサイ的な決まりとか公理があるわけじゃなくてまぁ公理として出せば公理化できなくもないけど公理的に考えた時点ですでにキリスト的ではないんだよね。不作為に行為を行うということだし特にまぁ俺はジーザスってのをアンチ律法者って言う風に考えるからこそまぁようは魂ってことだよね。魂の行いっていうかそれを三位一体で言うところの聖霊と言えなくもないと思うんだけど実質不可能だとしてもそれを目指そうとする善の渇望だよね。

 

そういう意味での条件付きでベルジャーエフが言うような精神ってのは神の息吹なんだっつーことが成り立つと思うんだよね。それを条件なく精神は神の息吹だってするとじゃあサイコパスとかはどうなるの?っていうまぁそれは悪の問題っていうまた別の壮大なサブジェクトになっちゃうんだけどそういう意味ではなんつーかキリスト教的なものはっつってもまぁユダヤ教とかイスラム教とか齧って入るけどそこまで詳しくないんだけどまぁ特にキリスト教においてはリテラルな理解ではなくて行間を読むっていう知的行為が必須って気がするんだよね。

 

そういう意味でもまぁバルトは恐らく聖書に神を見出すっていうトップダウンではなくてトップダウンの逆ってなんつーのか分からないけどまぁ下からの神だよね。聖書自体は神じゃないわけだ。まぁそこですでに意見がめっちゃ分かれるんだけどね。アホ臭い書いてある通りに額面通りに受けるような思考停止的なむしり害悪であるような理解とかあとはまぁ聖書自体を崇拝の対象とするようなこととかっていうような、ただまぁそこで問題は聖書に神を見出すっていう行為自体が凄まじく高度な知的行為になるから仏教でいうところの大乗じゃなくなっちゃうっつーところなんだよね。まぁそこで当然派閥として南無妙法蓮華経って唱えてればとりあえず天国に行けるぜ!っつーような個人のリテラシーレベルに依存しない救済の宗教としての大乗仏教っつーよりかはまぁ世俗仏教なり世俗宗教ってのが当然できるわけだよね。

 

でもまぁやっぱりそれはもう心情でしかないんだよね。ある種のインテリじゃないと理解できないようなものに普遍性を認めたくないわけでだからこそ信じれば救われるっていうようなお手軽さが無いと日々実践できないっていうようなさ、ただまぁそこでの世俗宗教を否定はしないけど結局まぁこういうのは形骸化しやすいよね。経典の理解というよりかは律法的なこれをやってこうするみたいなマニュアル的なものになったりあとはまぁとりあえず教会行くみたいな教えというよりかは儀式化するっていうような形骸化だよね。

 

別にミサとかを否定するつもりはないんだけどただまぁ本質的に仏教にしてもキリスト教にしてもめっちゃ難しいよね。あんまイスラム教については言及したくないっつーのは単純に全然詳しくないからっていうことなんだけどただまぁ数冊本をざらっと読んだだけでもイスラム思想の歴史なんつったらもう思弁の歴史なわけで本質的な理解ってことになるともうそれはまずそれに取り組むという研究の態度もさることながらある程度の知性を必要とするからね。

 

まぁそういう意味で伝道とか布教ってまぁジーザスは布教しなさいって言ったかもしれないけどどう布教するか?ってのがめちゃめちゃ難しいことになっちゃうよね。だからまぁお題目とりあえず唱えておきなさいっていう簡略化されたものにせざるを得ないっていうかまぁダウングレードしないと難しすぎるってことになるよね。

 

っつーかまぁ今日はこの辺で終わるわっていうか布教ってわけじゃないんだけど書きたかったことがさ、まぁすげーの見つけた!っていうことなんだけどLogos 8っつー聖書研究ソフトってのがあって別にステマとかLogosから金もらってるとかってことじゃなくて(笑)なんつーかティム・バーナーズ=リーのある種の方法論的思想でもあるようなWWWっつーのを地でいってるソフトがあってっていうかまぁ聖書研究ソフトって色々あるんだろうけどまぁようは図書館レベルの聖書だけじゃなくて聖書に関係するような文献とかが全部っつーかまぁそれはグレードにもよるんだけど何千冊って入ってたりしてんでまぁ例えば手動でやるとメモって検索して文献取り寄せて読む・・・みたいな手間が省けてるっていうかまぁようは市販されてる聖書関係の文献の重要なものは大体入ってるから一瞬で調べたいことについて調べることができるみたいな感じになってるんだよね。

 

っつーか動画貼るけど例えばバルトの教会教義学ってフィジカルでしかも和訳で買ったら合計30万ぐらいになると思うんだけどまぁパッケージのグレードによってはもうそれがライブラリに全部入ってるみたいなね、それこそバルト全集みたいなのが入っててなおかつ他の有名な神学者の全集とかも入ってる・・・・みたいな、あとまぁギリシャ語講座とかヘブライ語講座とかまぁ学びのインターフェースっつーのかね、まぁすげー近代的なハイテク聖書研究ツールっていう感じなんだよねってまぁ動画貼るけどね。

 

www.youtube.com

 

www.logos.com

 

まぁ歴史は長いみたいだから知ってる人は知ってるんだろうけどまぁ俺にはこれは衝撃でしたねっていうか色々と著作権の問題とかがあって難しいんだろうけど前に図書館を電子化すればいいのにとかって書いたと思うんだけどまぁまさにこれなんですよね。図書館にある文献ってのがフィジカルコピーっつー制約なしに読めるようになったらヤバいでしょ。まぁそれやっちゃうと商売にならないとか本屋とか出版社がやってけないっていうことにもなるんだけどまぁでも発想としては音楽のストリーミング化と同じ感じだよね。

 

Kindleで限定的にやってるし他もあるかもしれないけどまぁ読み放題サービスだったら月額払ってれば読み放題みたいなね、本もそうなると凄いなーって思うんだけどね。まぁ俺はフィジカルな本が好きだけどリアルに2000冊とか超えだすとってまぁガチの人に比べたら2000冊なんて大したことないんだけどまぁでも場所の問題ってありますよね。もう本棚に収まりきらないっていうさ、まぁそこでこれはフィジカルで持っておきたい!みたいなのは本で買ってまぁ読めればいいやーっつようなのはまぁ音楽と同じでストリーミング的にアンリミテッドで読めたらすげーなっていうかまぁそれで国民のリテラシーレベルが上がるならそれはもう直に国益でしょうって思うんだけどね。

 

あ、まぁんでLogos 8すげーな!と思ってだったらもうコレクターズエディションで完全に武装するでしょ!って思うんだけどまぁ100万ぐらいするんで(笑)まぁとりあえず基礎パックみたいなのだったら二万ぐらいからあるからまぁそれでアップグレードしていけばいいなと思いつつあとまぁネットフリックス的なクリスチャン動画サービスっつーのもやってるんだよね。

 

faithlifetv.com

 

まぁなんかFoxTV的な福音右派の匂いがしたりイスラエル臭かったりするのはしょうがないとして(笑)例えば今俺はお試しで見てるんだけどボンヘッファーのドキュメンタリーとか見れるんだけどなかなか他の動画見放題サービスで見れないよなーこれはっていうのがあったりして良いんだよね。月額500円だしこれは入ってていいかなって思ってますね。まぁでも日本ってクリスチャン自体が1パーセントだか0.8パーセントだかそんぐらいなんだけどまぁ世界で見ると何十億っつー信者がいるわけだからまぁこういうサービスも成り立つんだよなーなんて思いましたよね。

 

まぁLogos8然りなんだけどネット時代って偏屈な独学にならないちゃんとオーセンティックな講義とか文献が豊富に独学用に用意されてるっていう意味で学歴とか資格抜きに考えると本当に独習できる環境の設備が凄まじいよね。戦前とかの研究者とかの自伝とか読んでると丸善とかの洋書コーナーで本を買うなんつってもまぁ金無い中ですんげー高い洋書を買ってたりするわけでさ、身銭を切るどころの話じゃないんだよね。金持ちならともかくある種命がけで学問やってるっつーかましてや食えない哲学とか神学なんてのをやるなんてのは本当に命がけだよね。

 

それに比べてまぁ現代っつったらまぁ逆にインフラが整い過ぎてハングリー精神を発揮しづらくなってるかもしれないけどまぁやろうと思う意志があるやつにとってはすげー良い時代だよね。それでも金はかかるんだけど昔に比べたら金かからないわけでしょ。ましてや昔だったら留学しないと受けられなかった講義とかがまぁ受けられるっつーと語弊があるけどまぁ別に留学の意味ないとは言わないんだけどまぁどこでもできるからね。かといってもまぁそこで一気に大学なんていらない!ってことにはならないんだけどただまぁ本当に便利ですよねっていうまぁそんな恩恵をギンギンに受けながらイエスの徒の道を進もうと決心したんですねってことなんですね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。

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