ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

キリスト教に目覚めていく私。その7。

 新作できたんでよろしく。

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あとSatanic Mental KlinikからSacra Mental Klinikになったんで。桜メンタルクリニックとか普通にありそうなのがいいでしょ。語呂がね(笑)

 

ってことで本編なんだけど、更新がウィークリーみたいになってるけど(笑)ウィークリーって感覚が無いぐらい時間が過ぎるのが早いのだよね。積読200冊突破でなおかつ読破してるのが少ないとなるとっていうか辞書みたいなサイズの本とか概論みたいなのって時間かかるからそりゃ積読も増えるよねって話なんだけどあとまぁ例えば実存系の哲学の本だったら例えば今は宗教学とあとまぁ主にキリスト教って意味での神学にフォーカスしてるからサブみたいなメインじゃないやつはササッと片付けちゃうっていうほうがいいんだけどまぁそれができるんだよねっていうか哲学系の場合、単純にずーっと読んできたってのがあるから分かってる概念とかまぁもちろん初心を忘れないようにしつつもまぁ結構早く読めるんだけどキリスト教とか神学系の場合、基礎知識が全くないから読むのに時間がかかるのとあとまぁ全てが論理じゃないじゃん?全部が論理的だったら論理で考えれば自明っつーところを宗教とか宗教的ドグマとなると独特のもんがあってゆっくり考えながら読まないと全然身につかないんだよね。

 

まぁそれでもさすがに読み始めた二か月前っつーかもう二か月も経ったのか!って話だけどだいぶスラスラ読めるようにはなってきたよね。あとまぁこれはエッセンシャルな議論だなっつーのとどうでもいい感じのやつだなとかまぁあと伝道系の啓蒙の話してんだなみたいなのとかがまぁ分かるようになってくるよね。ただやっぱり俺の関心はもちろんまず基礎として歴史から宗教全般っつーのはまぁ積読200冊っつってもキリスト教が大半だけどイスラムとか仏教の本もあるっつーのはまぁ書くの面倒なんだけどキリスト教をやる上でまぁすげー重要だったりするんだよね。まぁその他の宗教ってのがね。んでまぁ仏教とかは昔結構読んだからっつってもまぁ今読んでもまたなんつーかキリスト教を踏まえるとまた違う感じになるんだけどあとまぁイスラムは歴史も含めて面白いよね。

 

色んな派閥で分裂して血みどろの殺し合いがあったとかまぁそういうドロドロした話もあるんだけど面白いのがコーランっつーファンダメンタルな教義があってまぁそれは直にアラーから来たものっていうかまぁジブリエルって言うけどまぁ天使ガブリエルがムハンマドに伝えたってことになってるんだけどまぁ預言だよねっつーかまぁ神秘体験したときに得た言葉的なまぁこの辺は生半可な知識で語るべきじゃないんだけどまぁざっくり言えばそんな感じでまぁそれはそうとしてそれがあるのにも関わらずようは予言といっても全ての現実に起こり得る色んなケースについての対応とかどうすればいいのか?っていうのが全て伝えられてるわけじゃないから結局後世の人たちがどう解釈すればいいんだ?っていうようはもうそこで学問が発生してんのよね。んでまぁすげー思弁的になるっつってもドグマありきの思弁なんだけどね。

 

で、まぁその歴史っていうのがまぁ俺の勝手な印象だとキリスト教ってベタな言い方になるけどローマの国教になってから固定化した権力のドグマみたいになって硬直したっつーかそこでなんか異論とか独自なものを言うものならすぐ異端扱いされて追放されるみたいな弾圧があってまぁそんな中でスピノザなんかはすげー挑戦的な聖書論を書いたんだなって改めて分かるんだけどそれに比べてイスラムはようは国教になって統治のためのイデオロギーっつーかまぁ逆に統治のためのイデオロギーにするにしても解釈とか教義の現実へのアプライが必要とされたから学問的な発展が著しい感じがするんだよね。色んな人たちが研究してどんどん耕されたっていう感じがするよね。その辺の知的努力っつーのがイスラムの初期にすげー感じるんだよね。

 

キリスト教の場合、まぁ前にも書いたようにプロテスタント以降にならないと所謂キリスト教的哲学みたいなのが出てこないっつーかまぁただあれだけどね、近代哲学に至るまでってのがそもそも神学的なバックグラウンドがある中で例えばカントとかヘーゲルにしてもっつーかまぁドイツ系のが特に多いけどまぁ立脚してるのはキリスト教だよねっていうかまぁ強いベースがあるよね。別にそれでカントがキリスト教的だってことにはならないにしてもまぁなんか神の名前とかを具体的にそれがキリストだとか父としての神とかっつー言葉が出てこない神学っつー感じがするよね。モラルに立脚するっていうその発想自体が神学的な気がするんだよね。

 

まぁんで神なんて時代遅れっしょとかっていうようなまぁ無神論とかが出てきたりまぁフォイエルバッハとかまぁそっからマルクスになったりとかんでまぁマルキストなんつってもまぁ左翼でもやっぱりヨーロッパとかだとキリスト教が根強いから例えばサルトルみたいに存在と無!とかって言っちゃうような人でもデフォでのキリスト教的考え方があるっていうさ、Man is a useless passionみたいな一つの帰結みたいなのもそもそもパッションって考え方自体がっていうか用語がもうね、そのユーズレスっつー感覚も逆説的に神を失った人間にとってはもう無駄な受難しかないっつーような発想と言えなくもないっていうかさ。

 

まぁただずーっと何らかの神中心に考えられてきたっつー哲学の歴史っつーのがまぁやっぱここ200年ぐらいですげー進歩してんでまぁポストモダン以降止まってるっつーかもう終わりまで来たっつーような感じになってるっていう逆にその現在ってのがすげー良い時代だなって思えるようになってきたっつーのは神学にせよ哲学にせよまぁ最近よく言う知的な人間たちの凄まじい知的努力の結晶みたいなのを浴びるように読めるわけじゃん?今って。

 

で、議論的にも神は死んだ的なことが自明になってもはや100年以上経つみたいなさ、かといってもそこでポストモダン以降何もないっつーんで停滞してるのか?っていうと結局は思想ってのは実存的なものだから今の俺がまさにそうだけどいきなり変わる場合とかってのがあるんだよね。

 

まぁ俺のこの一連の体験は「変わる場合もある」ぐらいのレベルじゃないんだけどただまぁ神学とか宗教っつー枠組みをこんなもんを人間はやってきたんだなっつー客観的な感じじゃなくて自分が宗教的生を生きる側として学ぶようになるっつーところからくるグラウンドブレイキングなダイナミズムだよね。

 

そっから躍動するものってのがあってよりそれが宗教がベースにあろうがなかろうが思想的なものを考えるうえでの深みが増すというかあとまぁ見えないものが見えるようになったみたいなね、まぁオカルト的な意味じゃなくてまぁ思想的な意味でっつーところでね、ただまぁ西洋に限って言えばまぁそりゃ大体キリスト教だろうってことになるから逆に全くキリスト教を知らないで思想をやるっつーのもなかなか難しいっつーかあんまり実感が湧かないよね。逆に当事者にならないと分からない理屈じゃない体感みたいなところがあるんだよね。

 

かといってもまぁ一気にバイブルが文字通りバイブルだ!なんてことにはならなくてまぁ元々超絶的に唯物論的な俺としてはさすがに一気にそこまではいかないわけでっていうか批判的に読む以外ありえないんだよね。んでまぁ余計なものを取り除いて残るものってのがエッセンスなんだとすればやっぱりそれは受肉したといってもあくまで生きている時は人として生きたジーザスっていうところに集約されるよね。

 

んでまぁ色々と聖書学とか読んでて分かったのがっていうまぁそりゃそうなんだけど基本的に新約聖書ができたのはジーザスが磔になってからだいぶ後の話でまぁそこで使徒による福音書ってのが色々あってまぁその中で何を聖典とするか?っつーような編纂があってまぁそれが本当にまた歴史的に面白い話なんだけどまぁ勉強している最中で中途半端な知識で言うのもあれなんだけどまぁでも書くのってまぁ頭すっきりするからいいしあとまぁ今のところはこう思うみたいなことを書くってのも重要だからまぁ書くけど基本的にやっぱり旧約聖書ってどう考えても時代遅れの古い産物っていうかまぁそれを批判的な聖書学とかだと黙示文学だったかまぁとにかくそりゃまぁ当然神話でしょとか寓話でしょみたいなことになるしかないよねっつーのはまぁそりゃ当然だよね。

 

基本的に旧約も全部聖典として捉える宗教の在り方ってのはまずまともな理性を持ってたら受け入れることができないようなものばっかりなわけで人類の祖先であるアダムとイヴっつーのもまぁ古事記で言うところのイザナギとかっつーかまぁ古事記時代が聖書の影響受けたんじゃね?ていうかまぁ基本的に神話の類型ですよね。よくある神話の形なんだけどまぁそれをリアルとして受け止めるっていうかそれをリアルと考えるのが信仰だとすればその信仰ってのは知的な後退以外の何物でもないよね。

 

古事記の国産みの話とかもまずまぁリアルなわけないよね。あのあれだわ、メガテン好きだから登校拒否になった中学ぐらいの時にメガテン経由で神話とかが好きになってまぁ簡単な本だけど色々と読んでた中でまぁあれだよね、ヒノカグツチイザナミが生んだときに火の神だったから出産時にオマンコが焼けちゃって大変なことになったとか(笑)ぶっ飛んでんなーっていうか本当に古代神話って作りが雑だよねーっていう印象しかないんだけどまぁ神話ってそういうもんだよね。ただそれをおとぎ話とするのかなんでそれがそういう風に神話として作られたのか?っていう解釈をするっていう読み方をするのとでは全然違ってくるじゃん?っていうかまぁ神話なんてそういうもんだから実録!日本の歴史!とかじゃないわけじゃん?ドキュメンタリーじゃないんだから神話の読み方ってのがあるわけよね。

 

そこをくだらないぶっ飛んだ世界観の創作だってしちゃうのはまぁこれまたそれをリアルだと信じるぐらいの愚劣なことだよね。まぁその程度の知的文化への接し方っていうか理解だともう人生そのものが浅くなるよね。まぁあと浅ましさがそういう神話の解釈とかに出ちゃうとかまぁ接し方ですよね。まぁそういう意味で旧約聖書に戻るけどまぁまず神が直に人に声をかけるとかありえねーだろっつーかまだそれが夢として出てきたとかムハンマド的な幻覚なのかリアルなのか?みたいな感じだったらともかく天使と相撲をするとか(笑)ちんちんの皮を切るってのが神のとの契約の徴だとか(笑)

 

イザナミのマンピーが生んだ火の子によって焼けただれたエピソードもびっくりなぐらい意味不明っつーかまぁ包茎って基本的に汚いっつーかまぁなんだっけな、チンカスがマンコに溜まるとそれがガンの原因になるとかまぁとりあえず汚いから切っておいたほうがいいよっつーような実利的なところを神との契約とすることで強制力を持たせたみたいなまぁ色んな解釈ができるとは思うけどまぁ基本的にそんなちんちんの皮を切ることが神との契約とするようなもんを聖典にするなんてのが無理があるよね。

 

まぁ別にユダヤ教はいいと思うんですよ。シオニズムとかはクソだけどまぁでも逆に超正統派の人たちからするとまたメシアは現れてないしメシアじゃない人が無理やり国を作ろうとするなんてのは間違いだ!っていう超正統派まで行くと逆に教えに忠実過ぎて反シオニズムなんだってのを知って「へぇー」とかって思ったんだけどまぁ基本的に旧約ってユダヤ教の教典ですよね。

 

それをだいぶ後になってできた新約聖書に無理やりつなげるってのはパート1で主人公と悪役が相打ちになって終わったんだけどパート2作る必要が出てきたから独立したもんじゃなくてパート1との無理やりでもいいからなるべく納得がいく整合性を保ちつつ主人公は実は生きていたとかなんかのテクノロジーでよみがえったとかんでまぁ悪役はまた新しいのを立てるかまぁあとは実は悪役も死んでなかったみたいにするとかっていうまぁパート1があるっていうことのストーリーの整合性の縛りが出てくるじゃん?

 

で、まぁ新約ってその旧約との整合性を保つためにすんげー無理やりな論理を使ってキリストを救世主に仕立て上げるとか神の子とするとかっていう必要があってまぁそこって新約聖書のケリュグマの部分っつーかようは宗教として成り立たせてなおかつ神話的なカリスマ性を出すために宣教(ケリュグマね)のために特にパウロなんかは学があったっつーか当時の知的水準で言えば超エリートだったし元々ユダヤ教徒キリスト教を迫害してたっていうかまぁ当時はキリスト教なんてのが無かった時代でもまぁジーザスをメシアだ!ってするようなものを迫害してた側がジーザス半端ねぇーな!ってことになってむしろユダヤ教ディスるっていうか実際にそこはジーザスが遠回しにディスってただろう形骸化した教えの律法化っつーところが神の教えっつーよりかはもうそれが人間が自己満足で守るルールになっちゃってるみたいなところも含めてただ当時のユダヤ教を信じてた人たちに対しての権威としての旧約聖書ってのを出してきてなおかつそれは旧約で予言されていた救世主なんです!ってことをねつ造すれば「おおそうなのか!」ってなってまぁユダヤ教との整合性も保たれつつユダヤ教バージョン2なんだ!みたいな宣教が可能だったっつーところであとまぁ当時文字じゃなかってにせよ神話としてコモンセンスがあった旧約っつー権威を出してきてそれを裏付けとしてジーザスの教えを説くっていうような、まぁあれだよね、実際にジーザスのファンダメンタルな教えの部分とパウロが「いや、俺はこう思うんだよね」っつーパウロの思想も含まれてるって意味でソクラテスと同じなんだよね。

 

ソクラテスっつっても実際は著作残してないって意味でまぁそれ言うとブッダも同じなんだけどソクラテスの場合、プラトンソクラテスを描き出すときにソクラテスを尊敬しつつもプラトン自身の哲学をソクラテスに語らせるっていうような方法を取ってたわけでまぁあれですよね、レオ・シュトラウスが強調するようなプラトンソクラテスって意味なんだけどまぁそこでシュトラウス自身で言ってもマキャベリとかプラトンの言葉を使ってシュトラウス自体の哲学を展開してたって意味でまぁ基本的にインテリが権威を使って自分の哲学を喧伝するっていう方法の常套手段なんだけど権威を使って言わば虎の威を借る狐っつーよりかはすんげー知的な哲学の形成の仕方っていうね。

 

そこをまさにシュトラウス的に言えば秘儀的なesotericな哲学っつーところで哲学学者がよくやる「何々によれば・・・」っつってなんでもニーチェによれば・・・とかって出してくればいいのかよっつー安易な感じじゃなくてむしろ哲学の王道を行くリアルな哲学者じゃないとできないような高等なロゴスを文字として伝達させる手法としての言わばソクラテスなりジーザスなりブッダなりっていうソースを使うっていうね、でもそこであれなんですよね、ただ利用したり悪用するっていうようなのがソフィスト的な哲学学者的なやり方であるとすればリアルな人たちはその使わせてもらってるソースを心底リスペクトしてるわけよね。

 

そりゃプラトンにせよパウロにせよブッダの弟子たちにせよとにかくまぁすげーお人だ!これは伝達しないと勿体ないぜっていうか人類の至宝だぜ!っていうぐらい心酔してないと逆にそこまで熱心に伝えようとしないでしょうっつーところでむしろ主に言いたいのは俺のマスターはこんなことを言ってたんだぜ!ヤバくね?っていうことなわけでね、ただそこは例えばプラトンパウロがどんぐらいの範囲がマスターのリアルな思想とか行動のところでどの範囲がプラトンなりパウロの私的な思想の部分なのか?っていうのはまぁ歴史的になかなか考察しづらいってのがありつつもまぁそこでだからこそ例えばパウロの場合、それがケリュグマ的な要素が多分にあると同時にパウロ自身の思想も入ってただろうっつー予想がつくって言うかね、ただそこでさ、そこまで分かってるのになんでキリスト教なの?っていうと逆にだからこそキリスト教なんだよ!っていうかキリスト教ってのが神話とかも含めてそれをリアルとするような知的後退させるようなものだとすればまぁ俺が信奉するのはキリストそのもので言わばまぁこれってプロテスタント的でもあるんだけどまぁもっとキリスト主義的っていうかキリストそのものに帰依するわけなんだよね。

 

神話は神話で結構。旧約はユダヤ教の教典でジーザス自身はユダヤ教徒だっただろうけどまぁ別にキリスト教とは関係ありませんっていうか宣教のために知的なパウロが色々と操作した結果、新約聖書っつーのができたんですっていう裏話が分かっててもジーザスそのもののあの反骨精神と思想のためだったら死をも厭わないどころかあの時代にあんだけ反骨精神を発揮していた人物なんて逆にソクラテスぐらいしか浮かばないだろうっていうぐらいエッジーっつーかさ、キリストは革命家だったっつーとそのテーゼがすげー陳腐になるからそこはそう考えてもいいんだけど逆に史的イエスとか神学とか神話も含めたところも全部頭に入れてなおかつそこで余計なものとか宣教のために盛られただろう奇跡の話とかも全部取り除いてもキリストのあのどっからその発想来たの?っていうような、ある意味で系統が無いような、ブッダとも比較されるような例えば花の美しさは栄華を極めたソロモン王ですらも虚しくなるような、人為的ではないそれそのものとしての美しさがあるでしょとかって例えばそれって語弊があるけどなんか逆に仏教的な美学じゃない?っていうようなさ。

 

無作為の自然な美しさっていうギラギラにブランド物で固めた性経験豊富な女よりも処女かどうかはともかくあか抜けないんだけど必死に生きててまだ汚れてなくて笑顔がとにかく素敵なまだ擦れてない少女の無垢な美しさ!とかってまぁロリコンって言えばそれまでだけどそういう意味じゃなくて(笑)まぁなんか足穂とかの少年愛の美学とかにも繋がるような東洋的な美的感覚っていうかさ、むしろ西洋ってなんでもロジックで理屈っぽいところをジーザスはすげー感性の人だったっつーのとそれでなおかつ残ってる言葉が聖句とされるレベルの神々しいロゴスを持っていたっつーところで神がどうのっていう神のオントロジーは別としてもまぁ所謂神ゲーっていう別に神ゲーは神が作ったゲームじゃないんだけどクオリティが神がかってるって意味での神ゲーでその神ゲーという概念においては神のオントロジーとか関係ないじゃん?

 

でもまぁようは言葉として神という言葉が使われるっていうところが含意するところだよね。そのロゴスっていうところで一語一句が全て神がかってるわけじゃなくてそりゃ中にはツイート的な言葉もあったんだろうけどまぁ特に山上の垂訓みたいなここだ!っていうような晴れ舞台では神がかった説教をしていたっていうところでもう神と崇められるような人だったっていう意味での神なんであってね、そういうロゴスを持った人であったというよりかはもうそれは比喩的に言うと神のロゴスが受肉して人として生きていたんだ!っていうことにもなりますよねっていうような、まぁそこでの人として神の子であったのでは?という意味での聖人とリアルな神としてのジーザスとは似て非なるものなんだけどまぁそこでやっぱりある意味で唯物論的でも完全に神話とかを取り除いた史的イエス像を見ても反骨精神たっぷりで宗教云々関係なくジーザスはすげーやつだったんだってのを認めざるを得ない凄さがあるわけなんだよね。

 

んでまぁ神と崇められてまぁそのあとにカトリック化したキリスト教ジーザスの御心関係ないような教義の乱用と思想の弾圧の歴史に加担するようなものになっちゃったっていうところがあってもそれは例えばマルクス主義マルクス本人の思想が関係ないのと一緒で例えばマルクスブルジョワを殺せ!なんて言ってなかったのに毛沢東とかポルポトみたいなのが気がふれたような大虐殺を共産主義の名の下で行ったなんつーのはまぁキリストの名においてって言いつつ弾圧しまくって魔女狩りとか侵略戦争とかやりまくってたキリスト教を軸とするような帝国主義ってのがキリストと全然関係ないっつーところとまぁ同じなんだけどただまぁそこで別なところで実際のジーザスが何をやってたか?っていう史的イエスってのはリサーチの限界があってそれ言い出すと聖書になった時点でもうそれは教えを伝える使徒の数だけ個別のキリスト教があったっつーぐらい寄せ集めなわけなんだけどでもそこでやっぱり言葉とか教えが持ってる強さとか思想の強さってあるじゃん?

 

それ言い出すとブッダにしたって書き写したのは弟子とかなわけでそれ言い出すとソクラテスも同じじゃん?老子とかにしてもアノニマスな当時の哲学者のコレクティヴ・アイデンティティみたいなもんだったとかまぁ実在したかどうかが怪しいっつってもまぁそこは教えが残ってて例えばそれが道教という形で教典が残っててそれが心を打つものだからこそ歴史に残っていくわけでしょ。逆にまぁ歴史に残らないような哲学とか宗教とかもいっぱいあっただろうしまぁそんな中でサバイヴして時代というコンテキストの中における解釈だったとしてもっていうかそれ以外ありえないんだけどまぁ色んな時代の人たちの心を打ってきたっていうところはもう事実だからね。まぁそれが俗に言われる古典の強さっつーところだよね。

 

ブッダの言葉とか悟りってのはやっぱり人類の至宝でしょう。んでまぁそれ言い出すとソクラテスも凄いわけでそんな中でやっぱジーザスも凄いんだよね。だからブッダ凄い!ってなると神の有無あんまり関係なく仏教を信奉するっていうところで仏教徒になるわけでそういう意味でキリスト教っつーかまぁキリスト主義ってのはようはそのジーザスの教えを信奉するっていうところなんだよね。

 

そういう意味でなんたら主義っていう意味ではまぁマルクス主義とかニーチェ主義とかそれが宗教っつー形態じゃないにせよまぁそれが自分のプリンシパルになってるとかプリンシパルと一致するからこれなんだ!っていうところでまぁ帰依できるっつーかさ、まぁ仏教にしてもブッダがオリジンだけどまぁ色んな宗派があってまぁその宗派ごとに違う教えってのがあってまぁそこに帰依するっていう意味での宗教っていうのは思想として成立するからね。まぁましてや仏教は神の有無なんてあんまり関係ないじゃん?

 

まぁブッダを神格化したり悟った人たちを神とするような考え方はあるけどまぁそれって象徴的な宗教の在り方なんであってまぁ神だとか三位一体とかキリスト自身が神が受肉した神の子だったんだっていうような考え方も仏教のまぁ如来像とか教義の中にある神話的なところとか象徴的なところっていうまぁそりゃ当然宣教的なところも含めて像とかがあったりお寺とかがあったりするわけでまぁそこは宗教だからそうなんだっつーところでまぁんでそれを崇拝するか教えに帰依するのか?っていうのもまぁ分けられないでとりあえずその宗教に帰依してるっていう言い方になるけどそれこそカルト的な崇拝ってのはカルトじゃない宗教でもカルト的な崇拝の仕方ってのはあるからね。

 

それがまぁ敬虔とは違う狂信っつーところになると思うんだよね。んでまぁ特にイスラムキリスト教は狂信者が多い厄介な宗教だってことになるよね。ユダヤ教もまぁイスラエルに限って言えば大概にしておけって話だけどまぁ仏教もカルトを含めるとまぁぶっちゃけオウムとかもそうなるけどまぁカルトじゃないものに限って言えば他の異化した狂信的でアグレッシブになったような宗教に比べたらだいぶおとなしい感じはあるよね。

 

ただまぁそんなわけでキリスト教というよりかはキリスト主義というところで言うとまぁプロテスタント以上のプロテスタントっていうかagainst all authoritiesっつーキリスト主義的アナーキズムだよね。それがもう教会とか人間による組織っつーのが介在した時点でもうコラプトする可能性があるし何よりその辺の神父とか牧師なんかよりも相当ハードコアに勉強して教えを実践してるんだっていうような自治的な在り方だよね。

 

ざっくり言っちゃうとまぁネグリスピノザ論のマルチチュードのキリスト主義的オートノミーとその実践っつー感じだよね。キリスト主義的な宗教的・精神的な自律を軸として、そのキリスト主義の下に外部に依存しない中間団体としての教会とかコミュニティとか、まぁ教えを実践する中で人間が介在する組織的なものはコラプトするからそういうものとは距離を置くとかって思ったりもするけど宗教的自治とか自律においてはやっぱり同じキリスト主義の名のもとにオートノミーが成立するほうがいいわけで、逆にこれってイスラムも勉強中だけどイスラム社会のほうが実はこういう国家からコミュニティの組織論まで幅広く実践的な理論が長い歴史の中で作られてるって感じがしてて、そこは見習うべきところは多いなーと思うんだよね。まぁただ例えばちょっと酔った勢いでヤッちゃっただけで石撃ちの刑になるとかまぁ近代性が無いのが相当アレなんだけど、抽象的に考えるとイスラム共同体の組織の在り方っていうのは高度で実践的な知というのが活かされてるっていう印象があるんだよね。

 

だからまぁ俺の場合ね、リベラルキリスト教っつーかまぁ極左キリスト教ってことになりそうだけどそれはあくまでキリスト右派とかカトリックがしょうもないから真にラディカルにキリスト的であるということはもうつまりは極左的と呼ばれてもしょうがないというよりかはキリストがそんだけラディカルな人だったっつーことなんだよね。

 

そこを人と呼ぶならそれはキリスト思想だけどまぁ俺は神のロゴスを体現した人っていうことにおいてのまぁバルトで言うところのインヌマエルの原事実ってところなんだけどそこがつまりは前には俺はインヌマエルの究極的な一回性って書いたけどそこがジーザスにおいてのみそれが顕在化したっていうところにつまりは聖なるものの根源があるっつーところなんだよね。そういう意味でのキリスト思想も含めたキリスト教を信奉するというところでまぁ究極的にラディカルですよね。まぁそりゃそうだよね。

 

俺がそもそもどんだけ突き詰めるんだ?っつーぐらいラディカルな人間なわけでただそんな人間がラディカルを突き詰めてニヒリズムの深遠に飲み込まれながら行きついた先がキリストで心に響いたのが福音だったっつーことなんだよね。つまりはそれは過去にもあったようななんかの思想に感化されるということではあるんだけど今までとは違う圧倒的なスピリチュアルというと語弊があるけどまぁ凄く論理とか合理性とかではない神聖さとか霊的なものっていうところがあるんだよね。

 

つまりはまぁ護教的にならなくてもそれが聖霊の働きというかまさにそうなったということが聖霊の存在の証明になっているっていう、そこでキリストはあくまで人間だったんだけど神の子であるっていう受肉という人間が神と共にあるという可能性があるということを示しているのがキリストの存在なわけでそれはただの人ではありえなくてそれは色んな言い方があるにせよ神の子というのがまさにふさわしいというかだからそこで父なる神という存在もキリストを軸にして明らかになるっていうか三位一体ってのは後に作られた理屈臭い人間が考えた理論だっつー意見もあるんだけど凄くすっきりする理論だよね。何より何かと乱暴な唯一神的なものと圧倒的な差別化が図れるという見栄えにおいても良いしね。

 

旧約とごちゃまぜにするとつまりはその父なる神は唯一神なんでしょ?ってことになるんだけど俺みたいなキリスト主義の場合、そんな乱暴な唯一神の存在は認めないし全ては神の御心にあるなんつってんでなんでんじゃあテロとかなんでこんな良い人たちが大量に死んじゃうの?っていうような天災とかにしても納得がいかないでしょう。それは人間だから納得がいかないんであってそれはもう分からないところの神の御心にあるっつってもまぁそうだとしてもそんなの受け入れられないってことになるよね。そこでまぁキリストの受肉って言うのが神と共にあるっていう神があるところに人間があるっていうところだよね。

 

その間に神の御心による謎の天災とかそれこそ旧約の神みたいないきなり天変地異とかを起こすような慈悲深いとか言っておきながら嫉妬深いみたいなそれって神なの?っていうようなものが介在しないんだよね。それがインヌマエルの原事実ってことなんだよねっていうかまぁ俺の理解だけどねっていうかまぁそもそも自分で言うのもなんだけど自分自体がそもそも思想に生きる人間だから誰々が言っていたこういうああいう理論とかじゃなくて自分の中での落としどころっていうことになるよね。

 

だからまぁそれはキリスト思想なんだけどでもそれが本来のキリスト教でしょ?ってことになるわけよ。で、それを信じる中でそこでやっぱりリアルな自分の生活の変化とか精神の変化とかってのが起きてくるわけでしょ。そこにまぁ福音を見るというか感じるというかね、そこがただの思想との大きな違いなんですよね。

 

そういう意味での人間が共通に潜在的に持っている救いっていうのがそのインマヌエルの原事実なわけで原罪みたいなのとかキリストの贖罪とかってのは旧約で勝手に規定された意味不明のアダムの原罪ってのがあってまぁそれを弁証法的なのかどうかはともかくとしてとりあえずアウフヘーベンするためのこれもケリュグマだと思っている自分にとってそれはどうでもいいことだしそもそも概念自体が旧約からのものだしぞの割にユダヤ教では原罪ってあんまり強調されてなくね?っていうような、まぁなんかそこも国家イデオロギー装置としての原罪を押し付けて悔い改めてキリストに服従しなさい!っつーようなイデオロギー的なものしか感じないよね。

 

まぁそこは無駄に政治学とか読んできたわけじゃないからイデオロギー臭かったり国家臭かったり権力臭いようなものと本当に尊い聖句の部分ってのは分別しなきゃいけないっつーよりそもそもそれが分別されて見えてくるからこそそれが読む人にとっての福音になるわけよ。眼光紙背っていうのがまぁそこに聖霊的なものの介在があるっていうか、ただそれが絶対かは分からないし感じるところはあっても学問的に厳密に検証されなきゃいけないからあ、これが福音なのねっつって納得してもう研究しないっていうことにはならんのだよね。

 

そこがまぁようはアガペーが内在された究極的なエロスってことになると思うんだよね。俺を突き動かすものっていうともうそれは内在的な強烈な強度を持ったエロス以外ありえないからね。まぁあとエロティシズムって意味でのエロスもそうなんだけどね(笑)JKの生足を崇拝するのと同じで俺はやっぱりジーザスにJKの生足みたいな尊さを感じるわけなんだよね。だからこそ帰依するわけだし何しろJKの生足が好きだ!っつー原事実は変わらないからね(笑)それは何なの?と論理的に問い詰められても分からないでしょう。ただもう好きでしょうがない!っていうそれでしかないからね。根源的なエロスってのはつまりはそういうものですよね。

 

なんか短めのを書くつもりだったんだけどインプットが膨大なのもあるしまぁやっぱ色々考えてるんだよねやっぱ。書きだすと止まらないんですよ(笑)まぁそんな感じでめっさ長くなったけど更新の頻度は落ちてるけどまぁ量で補ってる感じだからまぁバランス取れてるんじゃないの?っていう感じですね。まぁそんな感じで今日はこの辺でっていう決まり文句の後にアーメンとかって言ってみたりね。ってことでアーメン。

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