ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

奥歯・毒・自殺。

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Sekiroって積労だよなっていう積み重なる労力ってことだよなとか思いつつ前にも書いたけどRPG要素があるようで実は一本道というかカスタマイズができないまま理不尽な戦いを強いられてもはやパターンを知ることでしかクリアできないっつーところからの必然的な死にゲー感というかね、んでやっててつまらなくもないんだけどダクソとかブラボほどは面白くないんだけど理不尽とも思えるボス戦をやっててすんげー鬱になったんだよね。

 

いや、ゲームやることで鬱になるなんて本末転倒じゃん!とか思いつついやでもね、まぁクソゲーなら諦めればいいし単純につまらないならまぁそれこそアンインストールして忘れちゃえばいいんだけどなんかまぁ過るんだよね。んでまぁなんでこんなにゲームごときで鬱になるのか?ってのを考えたときにまぁそれってまずゲームやっててイライラしたりすることはあるにしても鬱になるってことはないだろうとかって思うわけで何なんだろうな?とかって考えてたらまぁ類似じゃないけどさ、まぁなんつーか人生と似てるんだよね。

 

理不尽で「いや、無理だろ」みたいなことを強いられるんだけど大抵のことはただのパターンでそれ知っちゃえばなんとかなったりするんだけどリアルの場合、パターンを知るということがSekiroにおけるボス戦みたいなもんで自分の身をもって知らないといけないから大変なんだよね。

 

で、ただまぁゲームとリアルが違うのはパターンが分かったとしてもゲームほどパターンが固定されてないっつーかカオスじゃないですか?だからまぁパターンだと思っててもそれが崩れたりあとはまぁゲームと同じような人的ミスですよね。なんかまぁその理不尽さってのがSekiroを通して感じるっていうかリアルに普段も感じてるんだろうけど感じててもしょうがないから封印してたり見ないようにとか考えないようにするようなものがSekiroを通して具現化してくるっていうか精神に現れるんだよね。

 

ただのパターンだっつーのも敵はそりゃプログラムされた通りに動くからまぁそりゃパターンなんだけどリアルもパターンだよねっていうか少なくとも知覚できる部分というか普段嫌でも見える部分ってのはパターン化されてるっていうかまぁそれが違い過ぎても逆に脳が慣れないから大変だからこそパターン化されてるから生きていられるっていうのもある反面、結局はパターンだから最終的につまらないというかまぁそんなもんだよなっていうような落としどころに行き当たるんだよね。

 

ゲームの自由度ってまぁただ体感される自由度でまぁプログラミングされた自由度ではあるんだけど自由度を感じたかったり逆に不自由でパターンを知って攻略するしかないみたいなむしろリアルってそんなもんばかりだからゲーム内では少なくとも自由を感じたいよねっつーところを徹底的に否定されるからなんか自分の自由が否定されてなおかつまぐれで勝つみたいなごり押しができないからパターンを知ることでしかクリアできなくてってまぁようは最適解が決まってるっつーことですな。

 

まぁでもそれは自由に思えるようなもっとカスタマイズ要素がいっぱいあるようなゲームでも構造は同じだったりするんだけどただまぁそれが幻想でもカスタマイズした主人公が戦っているんだっつー虚偽意識みたいなのを持ちたいわけだよね。まぁそこが否定されてるゲームでなおかつ死にゲーってことになるとそこはなんつーか難しすぎて低評価をするユーザーが多いっていうのもその怒りの矛先ってゲームそのものじゃなくて人生そのものに向けられたようなものなんだよね。

 

精神分析とかだとまぁ常套手段っつーかよくあることだよね。そういうのが別な形で顕在化したときにそれに対して怒りとか恐怖を覚えるというのも一般的にそれに対してそんな感情は抱かないはずなのに異常なまでにそういう感情が湧き上がってくるっつーのは実はそれは父親のイメージが関係してるだとかね、幼少期のトラウマがどうだとかっていうまぁそういうような感じでSekiroに感じる怒りと虚しさって人生そのものに感じているものの顕在化なんだよなっつーのを凄く思ったんですよね。

 

例えばそんなことを穿り出してくれるな!って思うようなことって例えば飲み会があるとかっつって知り合いもいっぱい来るし女の子も来るしチャンスかもよ?なんつって行った飲み会で知らない人からいきなり「んでこの先どうしていくんですか?10年後とかやっていけてるんでしょうかね?」とかって聞かれたらその問いそのものは的外れじゃないんだけどなんで初対面のあんたにそんなことを言われなきゃいけないんだ!っつーような怒りが出てくると思うんだよね。あまりに唐突で的外れな質問をされた場合はこいつダメだなっつーか意味分からないなっつってスルーできるんだけどなんでお前が?っていうのがありつつそれに怒りを覚えるのは的外れじゃない本質的な質問をされてるからっつーところにあると思うんだよね。的に中っているからこそイライラするっていうね。

 

Sekiroで感じるイライラってのもクソみたいな現実からゲームやってるときぐらいは逃れたいっつー娯楽でやってるのにゲーム内で少なくともゲームやってるときは感じたくないような感覚を感じることを強いられるからそれにムカつくっつーことだと思うんだよね。んでそんなことを感じつつ奥歯に仕込んだ毒を噛んで自殺するみたいな実際あったのか分からないけどまぁでも近代でもスパイとかが自白させられる前に死ぬためにメガネにカプセルの毒を仕込んだりしたみたいなことがあったんだなーって「奥歯・毒・自殺」って検索したらまぁ実際の忍者とかが本当に奥歯とかあとまぁいつでも死ねるように薬を用意していたのかな?

 

っていうようなのを検索しようと思ったら知る人ぞ知るみたいな、ある種俺みたいにずーっと本を読みつつ色々考えながら思ったことを書きつつ最終的に自殺したという女性のブログ以前の所謂インターネットのホームページのテキストサイトってのが残ってて昔に書籍化されたらしいんだけどその人のペンネームっつーと古いけどまぁ書く時の名前が「二階堂奥歯」っつー名前でんでまぁなんで検索で引っかかったのか?っつーと最終的に自殺したからなんだよね。

 

まぁなんかネットっつーか検索とかってこういうランダムなことっていうか全く予測できないようなところから妙に強烈な道とか強烈なものに出会ったりするようなことってあるよねっていうかSekiroと関係ないんだけどでもまぁSekiroやってなければ恐らく検索しなかったであろう「奥歯・毒・自殺」っつーワードに導かれるかの如くそのサイトに行きついたっつーかんでまぁ内容がまぁ読んでみれば分かると思うんだけど色んな精神的な葛藤とかってのがありつつ中心的テーマではないんだけどその著者が考えるテーマとしての信仰ってなんだろうな?みたいなところがあってさ、

 

そこがまぁなんか今のイルな精神状態になった俺と見事にヴァイブスが合うというかやべーなって思っちゃってまぁ一見っていうかあーまぁこういう人いるよねーっていう感じの頭の良いメンヘラ女か?って思いながら偏見越しに読んでたりするとかなり根源的なことを考えていたんだなみたいな一節があったりしてんでまぁまだ途中までしか読んでないんだけど常に精神的にギリギリだからこそ感じられるものとかまぁそれは美術でも本でも映画でもいいんだけど別に俺はエッジに立つぞ!なんつってあえてメンタルをそういう方向にもっていこうとしているわけじゃない感じっていうのが凄く文章から感じられてまぁ相当苦しかったんだろうなっていうのが伝わってくるんだよね。

 

っつってもまぁそれって結局は自殺したからっつー結末ありきでその自殺したということ自体が全体のコンテキストを作り出してない?って言われるとまぁそういう条件にはなるよね。色々と深刻なこととか形而上学的なことを書いてたりしてんでも最終的に自殺したってことになると伝説度が上がるっていうかね、自殺によって書いていた文章に全体的なコンテキストというか死によって与えられる意味みたいなのが出来ちゃってそれありきなんじゃね?っていうのは別に偉人だろうが作家だろうがそういうのってあるわけなんだけど例の二階堂さんに関してはそういう感じはしなかったんだよね。

 

まぁ結構俺って昔から最終的に自殺した人とかが残してた跡地になったブログとかを読んだりしてたんだけど久々にすげーヴァイブスのが来たな!っていうのがあってまぁそれはこのサイト面白いよ!みたいなことじゃなくてなんでまぁこのね、今みたいなSekiroによって鬱になったかは分からないんだけど結局まぁ信仰みたいなところに道を見出しても高揚感って続くもんじゃなくて信仰は続くんだけど別にそれで鬱が無くなるわけではないっていうようなね、そんなのをひしひしと感じてる時にSekiroやりつつ「はぁー虚しいな・・・」とか考えながら蟲によって死なずになってしまったおっさんを不死斬りで介錯した後に手に入れた「奥歯」によって二階堂奥歯のサイトに出会ったのだって思うと感慨深いわけですよ。

 

抽象化すると二階堂奥歯は自殺したんだけど死なずのおっさんは死にたいのに死ねないっつーところを主人公の不死斬りで死ぬことによってやっと死ねるのだ!って思ったんだよなっていうそれがヴァーチャルというか創作のものであれなんであれ主観的な俺の意味合いってのはそれが現実であれ創作であれヴァーチャルであれ関係ないよね。むしろそこは関係ないからそれが創作であっても何かしらのものを創作から受けたりするわけだよね。まぁそりゃそうだよね。まぁこれは小説だからとかゲームだからっつーような要素によって所詮はフィクションだっつーところから何もそこから受け取らないということはありえないっていうかまぁそれで受け取らなかったら他の映画とか何にしても感情が揺さぶられることはないでしょう。

 

まぁそういうような意味でさ、Sekiroの死なずのおっさんと二階堂奥歯は全く関係ないんだけど俺がこういう感じで二階堂奥歯のサイトに行きついたということがもう主観的な文脈を生み出してるんだよね。でもそれは言葉で説明できても他の人が理解できるとは限らないんだけどただまぁそういう体験に敏感な人は滅多にないけどあるよね!そういうことって!みたいな共感は得るかもしれないよね。

 

これってまぁなんか俺がまぁ実際はまずめちゃめちゃ苦労したのが弦一郎でんで今は梟なんだけど梟は倒せないこともないんだけどもうこんなにゲームで頑張るの嫌なんですよっつーむしろ早く終わらせないなっつーところから倒してしまいたいっつーのがありつつも途方にくれてなんか汚いやり方でもいいから方法ないかなー?なんつってアイテム欄を見ながら結局そんなアイテムでどうにかなるような攻略法はないんだけどでもなんかアイテム欄をカタカタ音をさせながらスクロールしているっていうそんなところからまぁ奥歯が目についてまぁでも噛みしめだったかまぁ自殺用のアイテムって死なずのおっさんを介錯する前から手に入れてたんだけど奥歯っつーのはとりわけ目につくなっていうか「でも本来死ねるのは一回のみである」なんつー独特のあのダークソウル系のフロムの語るようなアイテム解説の文章も相まってんでまぁ今の俺のこの気分ですよね。そういうなんとも言えないイルなヴァイヴスが導くものってあるんですよね。

 

あ、んでURL貼っておくけど日記の最初のページまでいくのが面倒なんで最初のページのURLを貼っておくわ。

 

http://oquba.world.coocan.jp/note5_p14.html

 

普段だったら「うわー猛毒系のサイトだ!」とかって思ったりもするんだろうけど今みたいな気分だと思わず読んじゃうんだよね。んでまぁ信仰とかキリスト教みたいな今の俺にとってのメインのテーマみたいなところに絡んでくるあたりが導かれた感があるというかさ、抽象化された「奥歯・毒・自殺」っつーそれはただ歴史的にそれってあったのかな?ってまぁそりゃ奥歯に毒を仕込むみたいなのってそりゃ知ってましたよ。時代劇とかでもあるもんね。

 

でもまぁなんでそれを検索しようと思ったのか?ってまぁそりゃ検索したかったからなんだけどでも行きついた先が強烈だったっつーかんでそれって素の時にそのサイトを見ても「やめとくか・・・」って思ったりしたかもしれないんだけどよりによって今みたいな気分の時にそれに出くわすっていうね、なんかそれがすげーなって思うんだよね。それもなんかその落ち込んでいた時にこんなものに偶然出会って救われたんです!みたいな感じじゃなくて深遠のまた深淵みたいなのに行きつくってのもまぁSekiroの仏師じゃないけど「因果なものよのー」って感じだよね。

 

ましてやなんかさ、内容も古本屋に行ってこんな本に出会った!みたいなことを書きつつ恐らく俺みたいに異様な量の本を読んでいてでも好きになったものはしょうがないからっつー理由で高いブランドの服とかを躊躇なく買ったりするところとか「まるで俺のようだ」って思わずにはいられないっていうか(笑)ただシャレにならないのが行きつく先が自殺っつーところですよね。まさに奥歯というワードと自殺というワードが結びつく接点ですよ。

 

まぁまさに死ぬような猛毒ですよね。メメント・モリと言えば聞こえはいいけど二階堂奥歯の文章を見てて思うのはすさまじいセンスとか教養とかなによりそれっていうのが彼女の鋭い美的感覚から来ているものでその感覚が鋭いからこそ生きている世界とのギャップに常に苦しんでいたんだろうなっつーところが特に誰に解説されるわけでもなく少し文章を読めばそれが分かっちゃうっつーところだよね。まぁもっと自殺した理由は色々あるし断定はできないんだけど感覚が鋭いってプラスに見ればそりゃいいことだらけなんだけど諸刃の剣なんだよね。マジで。ガラスの剣というかさ、切れ味はいいのかもしれないけどちょっと扱いを間違えればすぐ割れちゃうっつーところだよね。

 

だからまぁ常に俺ってこの先どうなるんだろう?っていうところが食っていけるのか?とか生きていけるのか?っていう物理的に衣食住を保ったまま生きていけるんだろうか?みたいな生存における不安より精神的にやっていけるのか?っていうそれがどうであれこの世界で生きていかなきゃいけないということでいつまでやっていけるのか?っつー不安があるよね。

 

だからこそ何かを見出したものには救いを求めるという癖があるんだよね。それが今はキリスト教なのかもしれないけどそこがなんつーかただの癖でしがみついているというよりかは必然的でなおかつそれが人生の全肯定に至るようなものであってほしいっつー願いなんだよね。書いてて自分でもイライラするぐらいナイーヴなんだけど(笑)実際に自分の精神がそうなんだからしょうがないよね。二階堂さんの文章で突き刺さるものというのは色々あるんだけど特に一つ今挙げるとすればここかな。

 

「神」を信じさえすれば楽になるということは重々承知なのです。でも、そんな操作をして楽になるのって欺瞞だわ。「どれほどの過剰な愛も受け入れてくれ、救ってくれる者」はどれほどの過剰な愛も受け入れ、救ってくれるだろう。定義上。(ちなみに罰してくれる者と救ってくれる者は同義だ)。しかしそのような操作は見え透いている。

 

自分でなしたその操作を忘れることができればその機械仕掛けは完璧だけれど、それでおしまいだ。

 

幸福さは罠だ。私には制御できないこの衝動をいんちきな永久機関に流し込んで楽になってはいけない。どうすればいいのか。とにかく、安易な解答には決して飛びつかないこと。瞬時にして幸福にしてくれるなにかがあったらそれとは一線を画すこと。感情なんていう一番安易に動かされるメカニズムに足を引っ張られてはいけない。感情はせいぜい利用すること。最大のエネルギー源なのは確かだから。

 

楽になれる神というのを信じればいいんだけどそれは欺瞞的過ぎるっていうむしろ自分の知的な誠実さと美意識がその思考停止というか、アヘンとしての宗教みたいなのを受け入れる精神性が無いっていうその知的誠実さ故に短絡的な幸福を一切否定することになるんだけどでも特にそういったような短絡的な幸福さってのは罠で、恐らくそれは宗教に限らず例えばドラッグだとかオンラインゲームだとか酒だとかギャンブルだとか刹那刹那を瞬間的な幸福感で満たせるのかもしれないけどでもそれは「いんちきな永久機関」だというわけだよね。

 

つまりは感情と幸福さは繋がっているようで実は断絶があるどころか実際は別物で他の日の文章にも書いてあることなんだけど人間の精神自体がマインドセットとか普段の意識というようなあるようでないようなものに立脚してるんじゃなくてまぁそこに立脚する部分もあるんだけど何より身体のコンディションっつー卑近すぎる物理的な要因に左右されるっていうことなんだよね。

 

そんなような深い要素がないただのコンディションとしての身体が感じるような幸福さのようなものを幸福だと思ってはいけないしそれは幸福ではないしそれはただの感情であるっつーところだよね。だからそれは何かをやるときに役立てるようなエンジンとして使うべきでそのエンジン自体に動かすそのものが支配されてはいけないっていうようなまぁ安易な幸福さを全否定するような立場なんだけど結局、何が突き刺さったのか?っていうと常に自分が自分に抱いてる欺瞞さだよね。

 

何かで覆ったりごまかしたりしてないだろうか?っていうまぁでもごまかさないとやってけないところはあるんだけどでもそれをごまかしているということが明らかではないにしても恐らくあるんだろうなっていう後ろめたさがあって常にそれに引っ張られるっていうか、まぁ今の俺のキリスト教に開眼したっつーのも色々理由付けしてはいるけど結局その楽になるための神学になってないだろうか?っていうところだよね。まずそんなの考えずに基礎的な知識をつけるべきなんだけどたまに頭に過ることなんだよね。

 

結局まぁぶっちゃけ神学者の全てがそうではないにしても結局、認知的整合性を保つための実存に依拠してるような神学とか神学に限らず考え方ってのは結局、自己中心的という意味でのまぁ自分という人間中心主義だよね。で、その中心をキリストとか神にしたところでそれは結局、人間中心主義の人間の部分をシンボリックなキリストとか神に置き換えただけで基礎的な構造は変わらないっていうね、結局、そこに自分っつー人間性が介在する限りその枠の中から出られないっていう、だから逆にそういう枠から出てるようなものを常に探したりしてるんだけど色々読んでてもまぁ滅多にないよね。結局こいつは色々なんか言ってるけど実存でモノを言ってるだけだなっつーのがすぐ分かっちゃうよね。

 

そういう欺瞞的な宗教ってのは俺が昔から心底忌み嫌うものなわけで、でもそういうものに逆説的に今は自分なりのキリスト教を見出す中でそういう欺瞞的なものと表裏一体になっているっていうか表裏一体っつー言葉が正しいか分からないけどまぁ意図してないところで急接近しちゃってるっつーところがあるんだよね。

 

別にそれは神とか宗教に限らず「これなんだ!」って思ってそれで誤魔化していれば厄介な問題を考えないで済むっていうような短絡的なもの全般を指すわけで、でもそれは一般的には例えばドラッグとか酒みたいに短絡的とされてないものだったりもするんだよね。むしろそれは価値があったり褒められるようなものであったりもするわけなんだけどだからこそ厄介なんだよね。

 

社会的な見栄えも良くて自分も誤魔化し続けられるっていうようなものがあればまぁまずそれに飛びつくよね。何より楽だからね。それは。そういうものをまぁ二階堂さんは「いんちきな永久機関」と読んでいるわけだよね。それは別に二階堂さんの文章を読んで考えて読解したっつーよりいつもの俺と同じで自分がそういう風に思っていたっていうものがこんな感じで誰かが書いていたっていうようなことに近いよね。その近接性があるからこそ刺さるわけだよね。

 

なんで刺さるのか?っていうと自分の心にもう出来上がってるもので的があるからなんだよね。だからそこに刺さると刺さったな!という感じを得るわけだよね。でもそれは別に一概に気持ちの良いものだけではなくてまぁ最初にSekiroの話で書いたような飲み会で初めて会ったような人にいきなり「この先どうしていくんですか?」って質問されるような不快さっていうのかな。

 

唐突過ぎるというよりかは中っていてなおかつ唐突過ぎるから色々な気持ちがごちゃごちゃになってとりあえず理不尽という感じを受けて怒りを覚えるんだよね。でも怒りを覚えるっつーのは少なからずそれは中っているからなんだよね。所謂失礼だぞ!っていうことに値するようなものの大半はそうだったりするよね。

 

そういう観点から見ると礼儀ってのはただのごまかしの作法っていうかごまかせるからこそ円滑に進んだり維持できる人間関係とか組織ってのがあるってことだよね。別に礼儀全否定じゃないんだけどそういうのも含めて煩わしいからこそ例えばそれは武道にしても内容より仰々しい比率が置かれている作法とか決まりとかっていうまぁよく俺が作法化して形骸化したものとかっていうことなんだけど宗教の仰々しさも同じだよね。

 

まぁ別にミサとかの全否定をするつもりはないんだけど結局直に神に行き過ぎてもなんかそれは直接的過ぎるから迂遠なことをして色々と着飾らせて粉飾したうえでリスペクトしたほうが形式的にも崇拝しやすいみたいな、特に神学書とかの邦訳で顕著なのが「神の全き存在において、主の御心が・・・」云云かんぬんっていうような丁寧に言い過ぎて言葉が多すぎて結局、全体で見ると10ページぐらいに要約できそうなことがそれは神に関することだからっつーことで仰々しく語り過ぎてるが故に本が分厚くなっちゃってるみたいなのが多いわけだよね。

 

まぁ本に限らずだけどブランドものとかにしても過剰包装して価値があるんだか分からないようなものに粉飾して価値をつけさせるんだよね。すんげー価値のあるヴィンテージのワインが醤油のボトルに入ってたら嫌なわけだからそのボトルとか包装とかラベルに至るまでとにかくまぁリッチに華麗に仕立て上げるわけだよね。まぁそれ自体に美学があることはいいし別にそれはそれでいいんだけどでもまぁワインはワインでしょ?っつーところだよね。

 

まぁ同じところで神は神でしょって俺は思うんだよね。だからそういう過剰包装とかを抜いたそのままとしての神を認識したいわけなんだよね。まぁでもとりわけ宗教とかにおいてはその過剰包装自体が職業とか何らかの信者がやるアクティビティだとかっていうものにまぁようは包み紙自体が主体になっちゃってるみたいなことが起こるわけだよね。宗教の形骸化とも言えるんだけどただまぁ宗教は原型がそもそもそういうもんだっつー話でもあるよね。だからこそまぁ俺は原始仏教じゃないけどまぁそういうお寺とか歴史とか仰々しいのもいいんだけどようはブッダでしょっつーところでまぁ俺はようはキリストでしょって思うわけなんだよね。

 

でもまぁその二階堂さんが言うような信じれば楽になれるような神ってのはまぁ恐らく広く信仰されてる色んな神の中でも恐らく大多数を占めるであろう結局はそれが実存的な「こうであってほしい」という希望みたいなのがそのまま偶像化したみたいなものであることは否定できないんだけどまぁそれってのは乱暴に言えばフォイエルバッハやらマルクスやらニーチェがディスってきたアヘンとしての宗教とか弱者の実存のための究極的な弱者理論が偶像化したようなものだったりするんだけどね。

 

まぁそれは色んな批判されるような類の神のあり方とか人々が信じたい!と思ってる観念が生み出すような神とかってのは必然的に仮に元がもっと洗礼されていて崇高なものであったりしても世俗的になるとそうなっちゃうのはしょうがないっていうような世俗化した宗教においてなわけでむしろ神学的な関心っつーのはそれこそナチスとかヒトラーみたいな存在とかまぁすべてのキリスト教がそうじゃないにしても例えばまぁ神が被造物を作ってそれは善いものであったとかって創世記だかに書いてあるのになぜ悪が存在するのか?っていうこともさることながら凡庸な悪を超えたようなヒトラーみたいな存在が出てきてしかも人間を大虐殺するようなことがあったりするのはなんでなの?

 

っていうかそれも神の御心にあるわけ?とかっていう所謂信じれば救われるとか信じれば幸福になれるような神に対しての批判とか懐疑ってのは別に近年に限らず昔からあったわけでってまぁ文献的にまだディグってないけど「それじゃナイーヴ過ぎない?」って言っていた学者とかはいたわけでね、まぁ別にそれが昔からであろうが現代であろうがとにかくその信じれば救われるみたいなおめでたい神ってのは神じゃないんだよね。

 

自明だけどそれはもうただのそれこそ二階堂さんが書いてるような認識のための意図的な欺瞞的な操作っていうことになるよね。もしくは操作する前にそうであるっていう風に教え込まれるっていうような洗脳というと言い過ぎだけどまぁそういう文化とか家に育つってそういうことだからね。

 

でもまぁ本当の神っつーとなんかアレだけどリアルでシリアスな神ってのはそういうおめでたい次元には存在してなくてまぁようは例えば内村鑑三なんかが旧約聖書の神髄!と言ったまでのヨブ記だとかっつーようなまぁサタンと話し合って人間をテストしたってどんだけ稚拙な話なんだ?っていうことではあるんだけど(笑)神っつーのは信じれば例えばスピリチュアルみたいに色々なことが上手く行くようになるとか聖霊の働きによってご加護を得ることになるとかっつーようなことではなくてヨブ記的な逆に普通にしててもそこまで酷いことは起こらないだろうっていうようなことまで起こり得るんだけどそれでも神を信じて祈り続けることができるっていうようなものが神なわけなんだよね。

 

だからそれは端的に言って人間の幸福度とかには全く関係ないような、それこそバルトとかも言ってるような徹底的な質的な断絶があるっていうオントロジーのレベルだとまぁこれはバルトというか俺の考えだけどっつーかまぁ普通そう思うだろうっていうようなことでもあるんだけど仮にいたとしても人間の考えの及ぶような存在じゃないよね。量子コンピューターみたいなまぁ概念装置的に近未来のありえないスピードを持った演算装置を何台も置いたところでももはやその概念に触れることはできないっていうような演算とかプロセスみたいなのを超越したものだよね。

 

だからまぁプロセス神学みたいなのも面白いんだけどでもそれはある種の自然神学みたいな、まぁ自然神学って何なの?ってことになるんだけど例えばその小さい木を放っておいても勝手にそれは育つっていうようなそれ自体が神のプロセスなんだっていうような人間が認識できるような類型に合わせてようはそれがもっと大きな規模になったものでしょ?っていうようなものを含んだようなあくまで人間の認識座介在したところでの人為的な神ってのはどんだけ言葉を尽くしてもそれは人間が語ろうとする限りもうそれは人為的な産物による神だよね。

 

だから考えが及ばないっていうところになると逆いるいないみたいな二元論のオントロジーじゃないわけで言葉を尽くしても表現できないっていうところでもうすでに既存の存在論的枠組みから外れてるわけなんだよね。まぁそもそも存在論自体がもう人間が論ずるっていう意味で人為的な概念だからね。まぁそれは卑近なものとかだいぶ人間に近いところでの形而上学もある種はカバーできるかもしれないけど神になるともはや無理というか意味をなさなくなるよね。

 

というかそんな風に人間の言葉とかプロセスで存在を証明できるようなものは神じゃないわけだよね。だからもうそれはブラックボックスなんだけどかといっても不可知というわけではなくて見えないし分からないんだけど見ようとすれば例えばその働きが顕在化しているみたいなものを人間レベルの認識で認知可能なものってのはあるかもしれないわけなんだよね。

 

だからまぁそんなに存在に関して明らかでないものを信じるなんて常軌を逸しているみたいなことだったりするんだけどそこがようは信仰とか信心っていうところなんだよね。すべてを把握するのは絶対的に不可能だけど片鱗だけでも人間の認知可能なレベルで認識できればそれは幸いだっていうようなその「幸い」をもたらすのが福音というわけなんだよね。

 

まさに良い知らせということだよね。でもそこで世の中は福音に満ちている!って言うこともできるんだけどでもまぁ現に例えば自分の生活を見てもクソみたいなことが起こったりなんで俺がこんな目にあうの?とか小さい自分レベルでもそうでそりゃ世界を見れば最近だとモスクの銃乱射とかにしても神がいたらこんなことは起こらないだろう!ということが起きているっていうかそういうのばっか起きているという印象しか持てないよね。まぁだからこその神なんだよね。

 

ぶっちゃけどこまでに関わってるかとか分からないっていう仮に善き人間とか善き信者であれば救われるんだったらなんで天災とかで教会やら信心深い信者とかが大量に死んだりするわけ?っていうところなわけでぶっちゃけ矛盾だらけなんだよね。なんでこんなクソな世の中なんだ!っつーところでもういるわけないだろう!と思えるような例を大きなことから小さいことまで出せば出し尽くせないぐらいあるわけでだからこその神だとも言えるわけだよね。

 

良いことが起こったりご加護が得られたりみたいな分かりやすい形で何かが起こるとかプラスのことが起こるわけじゃないんだけどでもまぁむしろ無神論的にならざるを得ないような環境の中で信じられる何かがあるっていうのが神なんだよね。だからそれはむしろ幸も不幸も起こることは全部背負うっていう実存的覚悟というのがつまりは信仰ということなわけでアンチクライストニーチェが言うところの運命愛ってのはまさにそういうことなんだよね。

 

だからまぁニーチェって世俗的なキリスト教に関しては否定しかないんだけどでもニーチェ全般における思想というのがまぁもちろんキリスト教の家で育ったっつーこともあるんだけどでも結局はキリスト教的なものから生み出されているわけなんだよね。キルケゴールとかも明らかなんだけどでもまぁ本人は信じてるけど全然幸せそうじゃないでしょ?(笑)

 

まぁ逆に安易に幸せになれるようなものってのは二階堂さんじゃないけど気をつけないといけないよね。これも神様のおかげだ!って思うのは自由なんだけどそう思いたいっていう認知的整合性から来るものだったらそういう風に思うことで神から離れるということになるわけでむしろ幸せと表裏一体の不幸も背負うっていう覚悟だよね。結局それは別に神とか出してこなくても主体的に生きるっていうことになるんだけどでもそれはキリストの名においてっていう言わば主体の「体」の部分が自分ではなくてキリストなんだっていうことなんだよね。それを主の体として考えて生きるという意味での主体性だよね。

 

そこでやっぱりバルトじゃないけどインマヌエルっていうキリストが受肉したという契機が決定的なものになるんだよね。逆にそれがないと仮に神がいたとしてもリアルにガチで永遠分からないことなわけでまぁでもキリスト教以外だったらそういう分からない神を信仰しているっていうこともあるんだけどキリスト教においてはキリストと意味不明なオントロジーの範囲外での父なる神とその働きを媒介するようなある種の次元とか昔で言うところのエーテル的な次元というのを超越的に持っているような意味での聖霊という働きと属性だよね。

 

だから神はキリストなんだけどじゃあその人間の次元において受肉したというその元は何なの?っていうところのソースが言わば父なんだけどでもそれは人間の言葉で言うとそうなるっていうことなだけで何回も書くようだけどオントロジー範囲外なわけなんですよ。まぁただそういった人間には備わってないような働きというのを可能にする聖霊という存在とかそれが行き来する神のドメインであるものというのをその神の領域において持っているっていうことなんだよね。

 

だからまぁ一神教で言うところの神っていうのはまさにその父と人間っていう関係性なんだけど俺が思うキリスト教っていうのはキリストという存在において人間に存在が開示されているっていう意味での啓示としての神なんだよね。逆にキリストが受肉しなかったら分からなかったしキリスト教を主体として生きるということを可能にしている唯一の論拠とか根拠っていうのが無くなっちゃうわけだからまぁぶっちゃけ言い方は乱暴だけどそういう存在の片りんすらも見られないものを信じるなんていうとやっぱりまぁオカルト的だよね。

 

まぁそこが宗教とオカルトの差なんだよね。宗教ってのはあくまでそういう現実性を軸に持っているものなんだよね。まぁそうじゃない宗教もあると思うけどただまぁちゃんとした宗教ってのはそういう現実性に立脚したものなんだよね。ただまぁ後世で色々と尾ひれがついて呪術的なこととか神通力的なこととかその他諸々の要素ってのがどんどんついてくるんだけどただまぁ少なくともキリスト教においてはキリストの受肉というのが決定的な論拠の要素というか人間の次元でそれはありますと言える基盤を与えているものなんだよね。

 

ただまぁ奇跡とか神秘体験とかってを否定する必要はないんだよね。まぁ実際見ちゃった人とか体験した人はいるわけでそれと実際のキリスト教との関係性ってのは分からないけどまぁそういうのはあるんだからあるとしか言いようがないよね。こないだ書いた南さんの本なんかでも仏教でいうと霊魂不説なんだよね。

 

ざっくり言えば判断しないっつーことで肯定も否定もしないっていうことだよね。ただまぁ南さんも言うようにそれが一般的には霊とか降霊と言われることだったりするのかもしれないけどそこに関しては論じないとか判断しないということなんだけどただまぁ事実として常識的に考えるとあるわけないものがあったり起こったりするということが9割ぐらいの確率で創作ではないリアルな話として伝わってたり例えば恐山という場所にいるとそういうのを見聞きすることが多くなるから心情的にはあるとしか言いようがないんだけどただ何かは分からないし定義もできないし仏教的にはそれは判断しないということを突き通すしかないっていうことになるんだよね。

 

まぁそういうところに関しては仏教は凄くストリクトな感じがするけど特に世俗化したキリスト教とかだとズボズボだったりするよね(笑)むしろ布教を目的の一つとしていたりするから使えそうなネタは胡散臭くても使うっていうようなナイーヴな意味でのマキャベリアン的なところがあるよね。まぁ布教のためだったらなんでもやる的なことだよね(笑)ナイーヴなマキャベリアンって言葉的に矛盾してるんだけどでもまさにそういう言い方がふさわしいっつーようなところがあるよね。

 

ただもうそれは神とかキリストがどうのというより組織的だったり政治的な目的だったりするしましてや歴史的にはその伝道を理由に人を虐殺したり侵略したりしてたわけでそこはもっと仏教的というとアレだけど仏教みたいに己と向き合うということが修行とか悟りに繋がるというようなまぁ修道院とかはそういう思想なんだと思うけど修道士として現実を生きるっていうことだよね。まぁそれは仏教的に言うと在家で修行を続けるっつーことだわ。

 

まぁその修行し続ける根拠だよね。それがまぁ死なないでこの世に居続けるという理由というかそれは例えばキリスト教的にとか仏教的に自殺はアウト!とされているから戒律を守るためという意味もあって自殺はしないということではなくて神の道を歩むから必然的に自殺ということはありえなくなるというような生き方だよね。だからまぁそれってのは苦しさを誤魔化さないで生きるっていう決断みたいなものでその根拠がキリストにあるっていうことなんだよね。まぁようは生き続けようとするっていうことがまぁそのまま信仰ということになるようなものだよね。それは幸せになるかどうか?って問題とははっきりいってあんまり関係ないよね。

 

ただまぁ神学なりキリスト教について勉強するということのエロス的な喜びはあるから体感的に幸福度は増すかもしれないけどそれはまぁ信じれば救われる的なこととかアヘン的なことではなくてただ誤魔化さずに生きるっていうことだよね。シモーヌ・ヴェイユ並にドMになって苦しさに飛び込まなくてもまぁぶっちゃけ生きてるだけで苦しいじゃないですか?まぁそういう苦しさっていう重力の中に恩寵はあるってことなんだよね。

 

ってことでいつもの普段書いてないから書くときすげー書いちゃうっつー最近の感じで唐突だけど今日はこの辺で。

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