ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

サルベージしたので。

外付けHDDのサルベージで色々出てきたのアップしたんでっつーかまぁ電気のマッシュアップとかあったからアップしたけどまぁURL貼っておくけどノイズもあるんで要注意で。

 

https://soundcloud.com/mimisemi/dinosaur-tank-mimisemix

 

https://soundcloud.com/mimisemi/tmimisemix

 

https://soundcloud.com/mimisemi/computer-muzik-8

 

https://soundcloud.com/mimisemi/computer-muzik

 

https://soundcloud.com/mimisemi/melancholy-and-insomnia

 

https://soundcloud.com/mimisemi/fragments-of-memories

 

っつーかまぁ病院行ってきたんだけど寝起きのThe End of The Worldな感じはどうにかならんのか?と思ってっていうかまぁそれが解決したらすげーことだけどまぁようは生産性っつーか俺的には読むのが膨大にあってまぁそんなに急がなくてもいいにしてもただまぁなんか頭が若いうちっつーとあれだけど頭が回るうちに色々インプットしたいってのがあるわけだよね。まぁのんびりできないっつーか頭って使わないとすぐ鈍るしでもまぁ寝起きの地獄のような気分というのはどうにもならなくてさ、んでまぁ先生曰くなるほどなーと思ったんだけどまぁようは高度なものを読むとか考えるってこと自体がまぁデフォで考えると異常なことだからそれをデフォにするのは無理があるんじゃないか?っていうことだったんだよね。

 

まぁ確かにそうだよなーとか思いつつなんかやっぱ理想言えば起きたらすぐやる気が出て本の続きとか読めれば余計なことを考えなくてずーっとまぁゾーンに突入できれば一番楽なんだよね。でも毎日そのゾーンの突入までのエンジンを動かすまでが大変すぎて読む分量とか本の内容が難しい!とかっつーより自分のマインドをコントロールっつーかゾーンに突入するまでが毎日しんどすぎて嫌になってくるよね。

 

かといってももういいやーっつって適当に時間を過ごしてるとすげー罪悪感っていうかもういいやーとはならんのだけど結局まぁつまらないんだよね。人生に飽きてるっつーのはだいぶ前から書いてるし年々それが酷くなっていってるからハマれること以外のことで正気を保つのは相当厳しいという感じになっているよね。

 

あとまぁどうでもいいんだけどそのめちゃめちゃダルかったり寝てるのに眠いっつーか頭が働かない感じで適当にネットとか見てるとどうでもいい情報が入ってくるのはまぁいいんだけどなんかの拍子に広告みたいななんか本の新刊!とかって出てるのを適当に見たりすると余計にバッドなフィーリングになるんだよね。

 

まぁこんなくだらない本が出てるのか!っていうかこんなのが書店に並んでるなんて終わってるな・・・とか思いつつただまぁそれが昔はこんなのを読むやつはバカだしこんな本が出る国の知的レベルなんて終わってるレベルだろうって言ってたりしてたんだけどあれなんだよね、そういうクソみたいな本が出てるんだけどレビュワーがちゃんとこんなクソみたいな本出すな!っていうか出版のレベルが低すぎるっていう嘆きとかがあってそこには救われるよね。

 

救われると言うと大げさだけどそういうのに五つ星とかついててまぁ一種の宗教みたいになってる自己啓発とかくだらない本を連発してまぁそれを買って褒め続けるっていう創価学会みたいなループになってるものとかってのはあるっつっちゃーあるんだけど国民を舐めるなって話でまぁうんざりしてる人はいっぱいいるんだよなっていうまぁ悪い癖がまぁ本屋とか行きたくないのもくだらない本が新刊とかで並んでたりするとリテラシーレベルの低さってのを嫌でも見せられるからそういうのを見たくないんだよね。

 

でもまぁちゃんとそういうくだらない本には舐めんなよ!っつーレビューがちゃんとあるからまぁ別にそういうくだらない本が出ている=国のリテラシーレベルが低いってことじゃないんだよね。ただまぁなんかさ、俺が前衛突っ走り過ぎてるから世の中つまらない!って思うのか?っていうとそうでもないんだよね。かなりの人たちがもう終わってるなってことに気がついてるんだよね。なんかふとそういうことに気がつくと別に自分だけじゃないんだよなっていうかまぁすんげー趣味がハイブローだから世俗的なものに悪寒が走るってことでもなくてまぁかなりそう感じてる人はいるんだよね。

 

だから何なの?って話なんだけどまぁだからどうすりゃいいの?って感じだよね。マジで。まぁ外的なものに何かを求めるんじゃなくて自分を磨いて内面を鍛えるとそれがまぁ楽しくなるっつーかまぁそんなのずーっとここで書いてる気がするけどまぁようはそのモードに入るまでに時間がかかり過ぎるのと時間をやり過ごすようなものが無いっていうかね、まぁ運動でもすればいいんだろうけど本当にまぁ起きてる時間の9割ぐらいは本を読んでいたいんだけどそういうわけにもいかないんだよね。

 

んで今後はもうずーっとこういうのが酷くなっていくのか・・・って思うとなかなかのオワコン具合ですよね。まぁそれは能力が衰えて例えば知覚とかが鈍化してダメになるってことじゃなくてむしろ成長しているからこそつまんなくなることが多いのと前は楽しいと思えていたことがもう楽しいと思えなくなるっていうようなまぁどんどん浮世離れするっていうか世の中離れですよね。まぁそういう人たちが若い世代で増えているとかっつーのを見てもまぁそりゃそうだろうなって思うよね。むしろ俺の世代ってまだ文化的な黄金期とか幻想だったにせよなんか明るい未来っつーか夢があったりしたけど今なんてデフォがこれだからある意味地獄だよね。

 

楽しいままでいたい!っつーんで自殺する中学生とかがいるのもすげー分かるんだよね。おいおい・・・って最初は思うんだけどまぁでもこういうことなのかなーって思うとまぁ先が分かっちゃってるんだよね。だからある意味人生がリアルなクソゲーになっていく前にまだ良ゲーのまま死にたいっつーのも分かるよね。

 

まぁなんかキリスト教に目覚めたのもまぁ生の肯定がしたいっていうのも潜在的にあったと思うんだけどまぁ当たり前なんだけど本質的な宗教的な啓蒙ってまぁ別に宗教の限らず本質を知るなんてのは一部の人しかできないわけですべての人に開かれてるっつーのはまぁ本当ただの建前だよね。まぁだから世間的な宗教だの別にそれがバチカンとかカトリックとか関係なくまぁ教会なんつってもそんなもんだろうしキリスト教的思想というかキリスト教哲学みたいなのって本当にニッチっていうとあれだけど超絶マイノリティなんだなってのを感じるよね。

 

どんなに偉大な神学者だろうがやっぱりまぁ護教に走るっていうかそこで「は?」ってなることが多くてさ、科学的というと変なんだけどそういうなんかね、実存に依存するようなこれ言っちゃうと自分の地盤がヤバくなるからここはこう言っておくのだ!みたいな逃げやっちゃったらもう基本的に全部ダメになるよね。そんなこといっても理不尽に死んでいく人たちがいるわけだしなんで?っていうような不条理があるわけだよね。

 

なんかそういうのにタッチしない脳内御花畑みたいなのがちゃんとした本でも多いっていうかナイーヴなんだよね。まぁそれこそ無神論者がじゃあ今世の中で起こっているこういうことはどうなの?っつーともうそこ突かれただけで崩壊するようなまぁそこが信仰なんだって言えばそれまでだけど盲目的になるとか見たいものしか見ないとか認知整合性を保てるような言わば正気を保てるような世界観以外認めないみたいなのが信仰とされるようなのって多いよね。それって思考停止とどんな違いがあるんだ?っていうね。

 

まぁ俺は元々言うまでもなく無神論っつーかまぁ宗教なんてまずありえないっつータイプの人間で今もその考え方が変わってないからこそ読んでてイライラするキリスト教関係の本とかが多いとまでは言わないけど本当にがっかりさせられるのが多いよね。なんか色々と勉強してたり学歴凄かったり論文とかも書いててまぁ凄いのは分かるんだけどそんな世界観なんて今時のリアルな現代人にとっては何にも響かないぜっていうようなのとかってのもまぁ所謂信仰を前提とすればそれは素晴らしい教えとか素晴らしい著書ってことになるんだろうけど世の中の理不尽さとかじゃああなたの言うそういう神がいたとしてじゃあなんでこんなことが起こるんですか?って言ったらもう終わりみたいなもんっつーのが多いっていうか大半ってことになるとまぁなんつーか結局現実に立脚してないっていうかまぁそのリアルに立脚しない時点ですでにもうそれはオカルトみたいなもんだよね。

 

まぁだからこそ一部のこれは良いなっていうと変だけど凄く輝いて見えるキリスト教的思想っていうのはやっぱりまぁほとんどがオワコンの中での数少ない救いだなって思うんだよね。まぁそれが何なのか?ってのは色々読んでいく中で色々書く予定だけど今はまぁ中途半端だからあんまり書きたくないけどまぁ結局は普遍性ですよね。簡単に言えば。まぁなんか変な人の観念が作ったような神ってのを出さないとかそういうのは別に特に論じないっていうことになるとまぁ結局仏教とかとあんまり変わらなくなるんだよね。まぁ仏教に普遍性を感じるってのは明らかにそういう思想にシンパシーを感じる俺の思想的なバイアスであることは間違いないんだけどまぁ結局例えばブッダにせよ達磨にせよっていうかまぁあれなんだわ、

 

達磨ってまぁ南さんの本で知ったけど所謂まぁ史的というとアレだけど厳密に言えば実際にいたかどうかって分からないらしいんだよね。まぁそれ言い出すとジーザスもそうなんだけどただまぁその存在の有無はともかくそれをソースとするような考え方とか教えってのがあっていろんな形でそれが成立しているっていうか成立してるっつーと変だけどまぁ伝えられてるっていう時点でまぁそれをようは福音を感じるかどうか?っていうところだよね。

 

だからこの俺の福音ということに関する感覚ってのはもう全く救いが無いような地獄みたいな世の中でまだ光があるようなものっていうまだ基本闇の中でかすかに光があるっていうような感覚なんだよね。まさにオワコンという感覚が無いとそれに逆に光を感じないっていうか全部終わってんなって思ってるだけじゃなくてそれには気づいてたけどもうずいぶんそれを味わってきていてもうなんかダメ臭いなっていう感じになってるからこそ福音を感じるっつーところはあるんだよねっていうかまぁそんぐらい切実じゃないと信仰心なんて芽生えないだろうなって思うんだよね。

 

まぁそういう意味で絶望と表裏一体というかまぁでもそりゃそうだよなって思うよね。なんか言い方悪いけどマルクス・ガブリエル!哲学のロックスター!なんつってまぁNHKの動画とか見ると微笑ましいっていうかこういうレベルの哲学は本当に気楽だよなって思うんだよね。もうこういう次元じゃないんだよなっていうのを本当に改めて思うんだよね。もう本当に特にこういうソフィストっぽいのはどうでもよくなってるよね。んでまぁこれも同じく勝手にロックスターとか言ってるけで実際はまぁそんだけ担ぎ上げられるからディスられやすくもなるってことなんだけどまぁめちゃめちゃディスられてるよね(笑)まぁこれも国民舐めんなよっていうさっきの話と似てるよね。まぁ単純にそうやって仕立て上げると何かと都合が良い人たちがいるからまぁ傀儡というかアイドルとかと同じだよね。だいぶ前に本人のあのユニコーンの表紙の本は買ったんだけどあーこういうやつかっつってつまらなくて途中でやめたんだけどね。

 

ただまぁそこがなんか一般的に言われるメディアと実際の人々の距離だよね。哲学界のロックスター!なんつって仕立て上げるメディアいう意味で成立してないんだよね。勝手にメディアが騒いだりくだらない本を出したり大げさな広告っていうか現代のスタンダード!みたいなまぁ売り言葉っつーのかね、んでまぁあまりに色々なところに取り上げられたりしてるから読んでみたけど本当にくだらなくて冷めましたみたいなちゃんとしたレビューがあるっつーところにまぁそのね、こういう感じで仕立て上げるメディアがあるってことはそんだけ見る側のリテラシーレベルが低いんだねっていうことではなくなってきてるんだよね。完全にメディアが空振りしてるってのがもうずーっと続いててまぁそのさっき書いたように何にもやる気が起こらないときに適当にネットやってるとまぁ目に入ってまぁ色々見て見るとそういうメディアの空振りと冷めている人たちっていうのが本当に如実に表れてるんだよね。

 

ね、やっぱりそういうところで神学に話は戻るんだけど仮に護教的でも例えばまぁバルトみたいな世代だと護教にしても例えばナチスみたいなのが台頭してきてて本当にヤバいことになっているっていう中だからこそキリスト教は絶対なのだ!って言わなきゃいけなかったっつーか危機神学とかって言われるけどまぁ実際に時代背景見るとバルト世代の人たちってまぁ哲学者もそうだけど本当に命と近いところで思想とか宗教やってるんだよね。まぁそのアームチェア的じゃないっていうかまぁでもバルト曰く自分はめっちゃ書斎の人間なのに外に出て闘争をせざるを得なかったとかって言ってたぐらいだからね。それをまぁ物騒だけど一応そりゃ大戦中とかに比べれば平和になった現在の視点から護教的過ぎるって評価するのもフェアじゃないよね。当時の必要性とか危機感っていう感覚無しで今の感覚で読むとそりゃ時代錯誤的なところもあるでしょう。でもまぁそういうのも含めて理解しないとダメだよね。

 

まぁ哲学もそうだよね。本当にまぁ命と近いところでやってる営みでまぁ書斎型のプロフェッサー型の哲学っつーのもあるんだけどまぁ俺が本当に呑気だなって思うのはそういう書斎型の哲学なんだよね。まぁ本当に興味く\\\ったんだなってのを改めて感じたんだよね。まぁそれもなんつーか危機神学的な時代精神とか異端とされても思想を曲げなかった学者とかっていうまぁそういう質感に惹かれるっていうか感じるものがあるのはまぁ俺がマインドの面では完全に死にかけてるからなんだよね。まぁマジで生か死かという感じでしょう。だからもう呑気なものはとことん呑気でいいですねって思うわけなんだよね。まぁだからそういう命を張ってやってるもの以外にあんまり何も感じなくなってるっつーのかね。

 

まぁただ俗っぽい宗教じゃなくて本質的な宗教思想ってやっぱそこにあると思うんだよね。実存というよりかは命ですよね。でもだからこそ人間中心じゃなくて神中心になるんだよね。でもまぁ一般的には命は尊いとされるんだけど実際の宗教思想に触れてみるとまぁそういうのがいかに俗流ヒューマニズム的思想なのか?ってのがよく分かるんだよね。まぁただ仮に聖職者とか宗教者になっちゃったらもうそう言わなきゃいけないという強制力があるんだろうなって思うしまぁ南さんも実際に自で言ってるからね。自分は仏教者だからこういわなくちゃいけないっていう仏教者である自分という立場と考えは必ずしも一致しているとは限らないっていうね。

 

まぁやっぱ南さんの存在とか書いたものに惹かれるのも哲学界のロックスター!みたいなお気楽な感じではなくて本当に切実に命とか人間であるということっていうような根源的なもの向き合っている思想だからなんだよね。でもまぁ別にそれは使命感があってやってるわけじゃなくてむしろそれにしか興味無いし一応答え的なものはあっても安住はしないというような求道的な姿勢だよね。でもそれはそうあらなければいけない!というようなことではなくてそうなってしまうっていうのが自分っていうところなんだよね。

 

まぁ僭越ながらそこは本当に俺も同じだなって思うんだよね。烏滸がましいけど宗教者としての大先輩としての南さんを凄くリスペクトするようになったっていうか以前はやっぱりまぁ仏教思想というところで見てたからね。

 

ただ今は自分が宗教にコミットするようになってからは見方が変わるよね。んでまぁ凄くそこが今書いた宗教者としての大先輩っていうこういう苦しい問題にずーっと取り組んできた人っていうリスペクトが生まれるんだよね。なんつーかまぁ命は何よりも大事なんて俺は思わないけどでも結果的に自分っつー命を受け取って生きてるんだなっていうまぁそんなの自明なんだけど意識的にそう思うようになったんだよね。それと命の大事さは全く別だから同じにしないけどね。ただまぁ命の上に生きているんだっていう当然のことが凄く意識的なものとして顕在化してくるんだよね。

 

んでまぁだからどう生きていくのか?っていうのはまぁ別問題っていうか別問題じゃないんだけど別にそれが分かったところでどう生きていけばいいのか?ってのは相変わらず分からないままなんだよね。まぁずーっとそうなんだろうなって思うし逆にそれが無いと宗教的な思想の深みには達することはできないんだろうなとも思うんだよね。そう思うとまぁそこでこないだ書いたヴェイユじゃないけどまぁ自分にとってのその重力ってまさのその強烈なうつ病なわけなんだよね。まぁ気分障害と診断されてるけども。んでまぁヴェイユみたいにあえて過酷な場を選ぶみたいなことをしなくてもデフォで全く求めてないのに地獄みたいな気分になったりすることが普段からよくあるわけでだからこそまぁ恩寵も感じられるようになるっていうことなんだよね。

 

別にリア充であってもいいとは思うんだけど(笑)結局まぁ物質的なものによって充実するということはありえないからもうリア充自体がありえないんだよね。もう精神の充実しかありえないわけなんだよね。だからまぁ俺なりのリア充への道ってのがつまりはその精神の充実の道っていうかまぁそこが最近書いてる大げさな言い方になるけどまぁ神の道っていうところなんだよね。

 

まぁニーチェも言ってたけどまぁようは哲学ってのは自分の血で文字を書くような命を削りながらやるものだってことなんだけどそこでまぁ世の中の大半の哲学者はそこまでの意識でやってないけど例外的に自分の親友とか教師だって言える存在が例えばショーペンハウエルスピノザだったっていうような、まぁようは命を張ってるっつーところでのシンパシーを感じられる人は少ないってのはまぁそりゃそうだろうっていうことで別にそれ自体に失望することはないんだよね。まぁ失望っつーかそもそも希望を持つなって話だよね。絶望がデフォなんだから。で、もう希望は福音にしかないわけだからね。でもそれは書かれた福音じゃなくて結局は啓示っつーところなんだよね。だから別に聖書読めば解決するようなことじゃないし本当に偶発的なものによって気付きを得られるっていうようなまぁローティー的な感じのcontingencyだよね。

 

結局まぁ土台はどう考えてもポストモダン的な相対主義なわけだからそこで絶対的な何かを求めるっていうのはロマンでしかないんだけどまぁそこがね、それを求めることこそがエロスだったり日本人としてのアイデンティティっていうまぁ保田師匠みたいな偏屈なナショナリズムではなくて本質的な文化としての民族性っていうところだよね。そういうナショナルなものが宗教的な普遍性とぶつからないっていうところがまぁようは
普遍性が偏在するっつーところだと思うんだよね。

 

ナショナルなものは絶対じゃないんだけど結局は自分はそこに必然性を感じるからそれが自分の民族性というかアイデンティティなんだなって幻想にしても思うわけだよね。まぁ典型的な海外にいたからこそ日本人的なアイデンティティに目覚めるっつーことなんだけどその民族性とキリスト教っていう普遍性っていうのがぶつからないんだよね。そういう意味での日本人とキリスト教ってのは今の自分にとっての大きいトピックスの一つなんだけど新渡戸稲造なんかが凄くそれに近いことを言っててまぁようはその繰り返しになるけど日本人としてのアイデンティティキリスト教的な普遍性がぶつからないっつーところだよね。

 

っつーか偏屈になりかねないダメ右翼的な意味での国粋主義とかに陥らない普遍性っていうのがつまりはその神へ帰依するということで担保されるっていうかそこが国家とかになると国粋主義になるんだけど民族主義という意味ではなくて日本人という民族だけど神に帰依するという普遍性というマインドがあるっていうまぁこれって結局グローバル時代のスタンダードであるべきものだよねって思うんだよね。逆にそこでの宗教的な普遍性っていうのがユニバーサルなbrotherhoodに繋がるっていうかさ、異教徒は抹殺せよ!みたいなベクトルと真逆の真の普遍性だよねっつってもまぁそれは机上の空論で宗教は俗化するもんだしそんな考えを例えばアメリカのド田舎の福音原理主義みたいなやつらとかイスラム過激派の連中が理解するわけがなくてだからまぁ永遠と対立は続くからまぁ政治に関してはもうあきらめるしかないんだよね。まぁもうそれってどうにかできる問題じゃないからね。

 

キリスト教イスラムの対立なんつったらましてやもう十字軍だのなんだのって歴史的に長いわけだしあとまぁパレスチナ問題然りだよね。ただまぁ気にするんだけどね。どうにかしなきゃ!っていう意識を持ってもしょうがないんだけどただまぁ問題には意識的でいるっていうまぁそれぐらいしかできないですよね。

 

まぁそんな感じですかね。んじゃまた。

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