ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

令和スペシャルその2。

では続きですけどもまた音アップしたんでっていうか前のやつだけどね。

 

https://soundcloud.com/mimisemi/a-pile-of-time-mimisemix

 

https://soundcloud.com/mimisemi/joy-mimisemix

 

https://soundcloud.com/mimisemi/p-model-mimisemix

 

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https://soundcloud.com/mimisemi/stretch-building-bamboomimisemix

 

https://soundcloud.com/mimisemi/mind-fluidmimisemix

 

https://soundcloud.com/mimisemi/almighty-father-solid-groovemimisemix

 

あとあれなんだよ、例のヘブライ語からの翻訳の旧約聖書届いたんだけど重厚感が凄まじいんだよね。本のデザインも良くてなんかこれこそまさに本をフィジカルで買って持ち続けるということの醍醐味だよなって思うんだよね。Kindleで4000円ぐらい安くてもこういう一生ものの本に関しては出費は惜しまないよね。まぁレコードと同じだよね。これはレコードで持っておきたい!っていう感覚がまぁ本もそうなりつつあるのかなと。あと中世思想原典集成を全部買おうかと思ったんだけど異様に高いままのやつとか以外は集めましたねというかこういう世界が広がる感じたまらないよね。昔の俺じゃまず中世スコラ学なんて読まなかっただろうし神学のおかげというか神のおかげですね。

 

ってことで昨日の続きね。


まぁただオントロジー的な概念ってやっぱり文化的なものに依存するよね。で、まぁ日本人の場合、何らかの形でそれが映画とか漫画とか美術とかでもなんでもいいんだけど何らかの無っていう概念に親和性を持っているっていうか異様なものではないんだよねっつってもそうでもないかな。

 

まぁこれが空っつー概念を知ったのって小室直樹の本だったんだけど説明が見事で庵を結ぶというところの庵という概念というかまぁあれですよね、野営というかね、元々野ざらしというかなんでもないところなんだけどとりあえずまぁ寝れるというかそこにまぁ一泊でもいいから寝泊まりできるような場所を作る的なことが庵を結ぶっていう概念でまぁ俺みたいなメンタリティの隠者が簡素な家とも言えないようなところに寝泊まりしているんだけど家と言えるほど家でもないんだけどただ野ざらしとも言えないっていうような曖昧なところだよね。

 

で、そこに住まなくなるっていう例えばちょっとした寝具とか簡素なドア的なものとかを解体しちゃうとその場は野ざらしに戻っちゃってかといってもその解体のプロセスというのも大層なものじゃなくて庵を結ぶ時と同じくらい無くすのも簡単っていうような、かつては家であったものがちょっとした操作で野ざらしになってしまってなおかつ住んでいた形跡もないぐらい野ざらしに戻ってしまうっていうような、そういうところでの家という概念は何なんだろう?っていうそこが家ともいえないしかといっても完全な野ざらしとも言えないというようなね、移ろいやすいとかっていうのともまた違うしまぁ諸行無常と言えばそれまでなんだけど基本的な仏教的なオントロジーって西洋的な論理でガチガチの確固たるものっていうのがないじゃん?

 

まぁまさにそれがオントロジーってことだし逆にオントロジーとかに言葉を費やし過ぎるとどんどんそれが貧しくなるっつーのはまぁ思弁的唯物論的なさ、こないだ書いたガブなんかもそうだけどまぁだからなんなの?っていうまぁガブは西田とかに動画で言及してたけど禅とかの世界で分からなかったらもう自殺するしかねーなぐらい追い込まれる感じでオントロジーを考えるっていうようなまぁ公案とかがそうなんだけどでもそれってのが例えば久松真一八木誠一の対談とかでのかみ合わない部分ってのがリアルなオントロジーとあくまで概念的に考えるオントロジーの差っていうところなんだと思うんだよね。客観的に見ると久松真一のほうが言葉足らずで何かありそうな言い回しをしてただ言わないみたいなごまかしをしているように見えなくもないんだけどただそれは間違いで認識の中で成立するものがオントロジーでそこに主客はないんだよね。

 

西洋的な形而上学の頂点をハイデガーだと考えるならハイデガーが禅のオントロジーに関心してたように禅とか仏教的なものってのはオントロジーにおいてある意味原初的なところからもう現代思想を超えてるモダンで普遍的なオントロジーを展開していたって言えなくもないんだよね。まぁ完全に禅かはともかくとしてそういう言葉にならないものを言葉にしたと言えるほど具体的じゃないにせよ西田の功績ってのはそういう言葉にならないようなものを西洋哲学的なタームでちゃんと説明したっていうところだよね。

 

もちろんそれと西田の思想ってのも入ってるものだから西田の概念=禅ではないんだけどただまぁよく比較されるように抽象度の低い護教的なしょうもないキリスト教ではなくてちゃんとした思弁的でなおかつ聖なるものっていう概念とか論理では包摂できないところも全てを言葉にしないにせよ人間が生きているという体験から得られうる神的なものの概念っつーのかな。

 

まぁそれを啓示と言えなくも無いしバルトはそれを啓示としたなんて言えるほどバルト読んでないからなんとも言えないんだけどそういったオントロジーのインスピレーションというのは普遍的だとするとキリスト教の絶対性が無くなるからそれがキリストの名において成されるということがなければそれはインチキだ!とするようなバルトの護教的な立場というのもいいかえればガブがカントの倫理学は絶対なんだ!っつーかまぁそれは語弊があるけどそこは譲れないところなんです!って言い切るところってのがまぁようはヒューマニズムっていうイデオロギーだよねっていうところになるのと同じでキリスト教も結局はイデオロギーだっていうことになるんだけどそこでやっぱりバルトが示唆的なのは聖書からしか啓示を得られないとしつつも福音というのは何も聖書の中の世界だけの話ではなくて実際の世の中に偏在しているっていうね。

 

ただ気をつけなきゃいけないのは実際の世の中にも福音は存在していると考えることで例えばヒトラーはそういう世界の神なんだっていうことを言いだすやつとか考えるやつがいるからヤバい考え方でもあるんだっていうだからまぁそこで絶対的とも言えるような聖書とかキリスト的なディレクション無しで世の中にも聖書以外の世界にも福音は存在するって考えるのは危険だから留保としてキリストの名というものを絶対にする必要があったっていうむしろそれは護教的というよりかは下手すると一気に大量虐殺とかもしてしまいかねないような暴走の歯止めをかける究極的な倫理的な担保というのがキリストの名において成されているっていうことだと思うんだよね。

 

なんかまぁその辺って例えば全てが無なんだったらある意味全てはどうでもいいじゃないかっていうことにもなりかねないじゃん?禅的な無とか仏教を介した無とニヒリストの無って同じ無でも全然違うからね。そういう意味で同じ福音ということにしてもやはりそこにキリストの契機が無いものに関しては仮にありえたとしても理論的なレベルではそうじゃないんだよって言う必要性が出てきてしまうっつーのが例えばバルトがキリストの名においてっていうところにめちゃめちゃこだわる部分であったりブルンナーの自然主義的な神学に否!(ナイン!)っていうことだったりするんだよね。

 

一輪の健気に咲いている花の美しさは栄華を極めたソロモン王でも勝てる見込みがないっていうような、まぁ俺が普段少年というのは人間的な属性において美少年というのは美の最大であるっていうようなところだよね。それはまぁファッションを究めた洗練され尽くした女性とかでも素朴な美少年の美しさには敵わないっていうようなところなんだけどそこで特に飾っているわけでもないただあるだけで美しいというような自然の存在というのは神の所産であるからそこにキリストやら聖書というものが介在しなくても例えばその一輪の花の美しさから神の片鱗を感じることができるっていうところにいや違うんだそれはって突っ込む必然性というのはようはスタート地点のことだと思うんだよね。

 

そういう風な言い方もできるけどそもそもそういったものの成立というのが神の受肉という契機があることによって成立しているんだっていう、別にジーザスは創造主ではないんだけど神の片鱗を感じるためにはまずその決定的な契機への信仰を必要とするっていうことだよね。でもそれは信仰が無くては美しさを感じることができないということではなくて美しさを感じることはできるんだけどそれが創造主の所産であるかどうかは別として福音やら神の片鱗を感じるには認識のレベルにおいてジーザスを神と認めるという大前提が必要になるっていうことなんだよね。

 

でもそれは押し付けじゃないし信じるか信じないか?っていうのは任意でぶっちゃけそこに信仰は逆説的に必要としないんだよね。だから神を信じるか信じないか?で世界の見え方が変わるか?っていうと例えば今の俺みたいに考え方は変わるかもしれないけど根源的なある種アプリオリな美とか崇高さみたいなものには影響はないんだよね。

 

なんでか?っていうとそこが結局はイデア的なところでなんでアプリオリな美とか崇高さとかもっと言えば善が可能になっているのか?っていうかそのコンディションというのがアプリオリであり得るのか?っていうところがすでにもう神の証明になっているということなんだよね。だから知っても知らなくても常に人間は神に触れながら生きているんだけどそれが意識的であるかどうか無知なまま無意識であるか?っていうところがようは無知でそれは自然にそうなっているもので自然にインスピレーションが来るものだという風には言えないっていうところになるんだよね。

 

一見そういう風に見えなくもないが実はそれは神の契機が無いと不可能であるというところを全く理解しないままそれを人間が思う自然に還元してしまっているところに一見両者は同じの例えば美しさとか崇高さとか絶対的な善を感じながらも全然違う認識の状態にあるっていうことなんだよね。ただそれがアプリオリなんだったらなんでそのある種の絶対的な善とは違うベクトルものが出てきてしまうのか?っていうところがようはそこが人間の所産っていうところなんだよね。

 

原罪を悔い改めない人間の所産と言えなくもないけどまぁ原罪という概念は相当曖昧だし俺もそんなに知らないんで(笑)概念の乱用はしたくないんだけどただまぁあくまでそれを悔い改めるというきっかけは全ての人に平等に与えられているんだけどそこで悔い改めるかどうか?っていうのは全く別問題なんだよね。

 

結局そこが神の謎のところというか仮に全てが良いんだとすればなんで悲惨なことが起こるのか?とか仮に人間が神の被造物なんだとしたらなんでサイコ野郎がいるのか?とかっていうのはもはや人間がとやかく言える次元の問題じゃないんだよね。だからまぁ確定的なことは言えないんだよね。ただまぁまともにカルヴァンとか読んでないで予定説がどうのって言うのもアレなんだけどまぁ今ぐらいの知識で言うと結局予定説なんて認められないしそんなのおかしいよねって思っても逆にそのおかしいよねっつーところが世の中おかしいよねっていうところとマッチするよね。神がいるならなんで神に祈っている人たちがいる場所でテロが起こったりするのか?っていうそこで神の不在というか神なんてだからいるわけねーだろと言うのは簡単なんだけど理由はよく分からないが救われる人とそうじゃない人は元々決まっているっていうことだよね。

 

で、ここが直感と反するところなんだけど敬虔に善行を積んでなおかつ修行もして神様にお祈りをして伝道もするみたいな超絶的に神に仕えている人の活動とかってのはぶっちゃけ神にとっては全く関係ないところなんだよね。人間はそれをやることで神に仕えているんだとか恩寵を受けられるんだって思えるからそれは便利なんだけど実際は全く関係ないっていうね。

 

ってことでこのあたりで5000字なんで続きはまた明日。

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