ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

令和スペシャル・エクストラ4。

新曲できたんでヨロシク。

 

https://soundcloud.com/mimisemi/church-music-abstractions

 

 ってことで続きね。

 

ってところまで書いて寝たんだかいやあれだわ、音源色々見つかってすげーアップしてたんだったわ。なんか書く予定だったのか忘れたけどまぁそろそろ外に出ないとヤバいなっていうかSan値が削れるというわけじゃなくて「このままだと闇に飲まれる」って思ってないと厭世モードっていうか隠居モードが激しくなっちゃうからね。

 

人間がつまらなくなるのってちょうど俺ぐらいの年齢かちょっとしたあたりらしいぜ。家族を持って守りに入るとか冒険しなくなるとかね、まぁさすがに暴飲暴食しよう!とかオールのフェスとかライブみたいなのに行こうと思わないしまぁ見たいのが無いってのもあるんだけど体動かすのがもうしんどいよね(笑)

 

全然話違うけど南さんの本を読んでて恐山に一回行ってみたいなっていうか宿坊が高級ホテルみたいな感じなんで(笑)それも含めて見に行きたいのとあと母の実家が秋田なんだけどまぁ別にそれは関係ないんだけどプロテスタントの癖にあれなんですよ、血の涙を流す木彫りだかのマリア像ってのが秋田の修道院にあるんだよね。それを参拝したいなっていうか恐山の帰りに行ってこようかな?って思ったりしたんだけどとにかく面倒だよね。

 

仮に海外どこでも行けます!ってなっても今となっては空港までもダルいし機内もエコノミーじゃ疲れるしんでまぁ現地行っても時差で辛いしっていうまぁ年齢のせいにするつもりはないんだけどなんでもかんでもめんどいってことが先に来るようになりますわな。でも別にエネルギーが無くなってるってことじゃないんだよね。

 

むしろ知的エネルギーは空前絶後でしょう。だからまぁプライオリティなんでしょうね。得るものが多いというか色々と経験すると経験も大事なんだけど認識のための勉強というかインプットっていうことが何より重要!ってことになるから遊びみたいなのに優先順位が行かなくなるんだよね。

 

あとまぁ楽なんですよね。ハマっていることをやり続けるというのが一番楽。面倒くささは無いし迷ったりつまんねーなとかって思わないからなんだけどいつも書くけどエンジンかかるまでに時間かかり過ぎてそれが難点なんだけどね。

 

だからまぁ一昔流行ったライフハックじゃないけど起床後はあんま集中できなかったりやる気が出ないからシャワーとかちょっとした部屋の片づけとかPCのファイルの整理とかサルベージとかそういう雑務をやるってことにしてんでまぁ寝る6時間前ぐらいですよね。日内変動の特徴ですけどもエンジンかかるのが一日の後半なんだよね。だからまぁそれまでは映画見たりとか逆にその時間に映画見たりするのは勿体ないからエンジンかかったら曲作りか読書ですよね。

 

まぁあと探してる音ネタ探しとかはそんなにやる気いらないからこれもまぁ起床後のあんま調子が出てこないときにやるとかね。起床後すぐにやる気マックスだったら相当楽なのになーって思いますよね。だからまぁ覚せい剤とかに手を出す人もいるのは分かるよね。娯楽とか退廃というよりパフォーマンスのためにやるんだよね。まぁ脳壊れるからダメだけどね。

 

あとまぁ必要だと思うのが読む本が大量にあるのはいいんだけど選別してあんまりたいしたことなさそうなのは流し読みというより元々まぁめっちゃ読書のスピードは速いんですよ。元々というか本ばっか読んでたら誰でも読むのは速くなるんで能力とか才能とかじゃないんですよね。

 

ただキリスト教関係になると自分が無学だからなんでも精読しようとしちゃうんだけどやっぱりまぁ教科書的な内容ってつまらないよね。歴史もまぁある程度知っておけばいいやーぐらいに思うのは大事かもしれんね。やっぱり興味あるのってキリスト教思想なんだよね。

 

んでまぁ現代においてのキリスト教のアクチュアリティってなんだ?っていうまぁ宗教的プラグマティズムというか使える使えないみたいなことではなくて宗教というよりかは思想寄りでまぁ思想って強いとまぁそれが問題になることもあるけど基本まぁ根が強くなるよね。曲がらないというかさ、自分はすげー思想的な人間なんでそういうところだよね。やっぱり。

 

で、まぁいつも書くけど世俗化した宗教というのはレベルの差はあれど海外のカトリックとかってことでもまぁざっくり言っちゃえば日本の葬式が別に仏教徒じゃなくてもデフォで仏教形式になってるぐらいのもんで仏教っていう思想に詳しいわけじゃないよね。

 

まぁ宗教っつーか生活とか歴史的な意味で文化の一部になる宗教ってそういうもんなわけでちゃんとキリスト教を研究してるのか?っていうキリスト教徒なら当然でしょ?っていうようなのもまぁんなこたぁないんだよね。それは一応葬式が仏教形式の恐らく大半の家庭の人たちが仏教の経典研究してるのか?っていうと研究してないよね。

 

いや、それが悪いとかじゃなくて元々俺も全く宗教とは無縁な人間でまぁんでだいぶ前だけどアメリカ居たぐらいのときに仏教を学び始めてんでまぁそっからは宗教というよりやっぱり思想なんだよね。ブッダのラディカルさ!とかナーガルージュナのある種の思想の編纂者としての力量というかさ、後に残るような思想を残してるっていうところがはんぱねーな!とかって思うわけですよね。

 

ただまぁそういうのをコピペしたり換骨奪胎するような仏教系のカルトとかってオウムを出すまでもなく色々あるんだけどとりわけやっぱり一般的にカルト認定されてないほぼカルトみたいなアメリカの田舎の福音派とかヤバいよねって前にも書いたけどアメリカの国教がカルト!みたいなもんだよね。

 

んでまぁ宗教に走るのがバカばっかだから逆にキリスト教徒なんて言おうものなら自分はバカですって言ってるようなのと同じになっちゃうっつーかさ、特にアメリカのインテリとか都市部の人たちなんてそういうアメリカの悲惨な田舎の状況とかを見てるからそりゃどんどん宗教離れしますよねってことになるよね。

 

ユダヤ教とかになるとディスるつもりはないけどやっぱりまぁ律法的なことが異様過ぎてハードコア過ぎるしイスラム教は分からんけどまぁ9割ぐらいのムスリムは平和主義者で残りのカルトなやつらが過激派になるっていうのは別にキリスト教も仏教もユダヤ教も関係ないですよね。どれにも過激派っているんだよね。

 

まぁなんつーかもう思想って時代じゃないだろうっていうことなんだけどデジタルエイジ的な意味でまぁなんか全体的に並列化されるっていうのはあるってこれもまぁ散々前から書いてきたことだけどそこでやっぱり埋没しそうな中で確固たる個であるということは思想以外にありえないと思うんだよね。

 

かといってもそれはマルクス主義者だからデモをやる!みたいなまぁこういうのもようは並列化されたような形骸化されたイデオロギーなわけでイデオロギーって思想じゃないからね。なんかこの辺の話はテリー・イーグルトンとかの本をまた読んだ方がいいのかもしれないけどそこでのまぁアクチュアルな思想とか宗教とはなんぞや?ってことだよね。

 

んでまぁそれはそうなったからっつって隠匿して修行するみたいなものではなくて社会の中でアクチュアルであるということだよね。そこで個であるということっつーかまぁなんか個別の11人みたいな話になってきたな(笑)っていうことなんだけど別に個人火薬庫を作っていつでもテロできるようにしろ!っていうことじゃないんだよね。

 

スパークさせるような物理的ではない思想的な火薬庫だよね。キリスト教とか仏教っつーと闘争と無関係な感じがするけどむしろ闘争が無い思想なんてありえないわけであとまぁよくサマリーとかに書いてあるような慈悲心なり隣人愛とかまぁそうなのかもしれないけどプラグマティックに考えるとそれは不可能ですよね。

 

もちろんそこで俺がブーバーに触発されたのはそういう俗っぽい隣人愛じゃない愛なんだっていうところでまぁそこは俺が書くよりブーバーの本を読んでもらった方がいいからどれと言わずとりあえず読んでみてほしいんだけどそこでの神と自分との関係においての個ということで定立される実存だよね。で、それが社会で生きるということがプラグマティズムというか実践になるんだよね。知行合一ですよね。

 

いつも書いてるけど行動が伴わない学問はただの虚学ですよね。知ってると役に立つ!的なものは否定はしないけどそれは浅すぎるっていうかくだらない胡散臭いビジネス書とか自己啓発本ばっか出すような出版社がソクラテスに学ぶ!とかまぁ上辺を掬っただけみたいなのっていつの時代もあるっていうかショーペンハウエルがあの時代においてすでに本屋に行くとクソみたいな俗っぽい本ばっかが並んでておぞましいみたいなことを書いてたぐらいなわけでそれはどの時代も同じなんだけどそこでまぁエッセンシャルであるということの必要性というかさ、それはマスに消費されるような空虚なシニフィアンということでもないんだよね。

 

もう亡くなったけどラクラウの空虚なシニフィアンポピュリズムってすんげー重要な概念でそれって政治だけじゃなくて一般的にそうなんだよね。adhocで言えばポピュリズムということなんだけど例えばカトリックとかがキリストの体とかって言ってきた実際はただの統治するための道具とかっていうような権力装置としての教会なんつーのも言わば象徴的な空虚なシニフィアンだよね。

 

個々にとってはキリストということが意味することは色々あるしそれはまぁようは偶発性というか蓋然性というか色々なんだよね。で、まぁ色々な動機で教会に来るのはいいんだけどそこでの個々の教会に来る意味と教会が意味するシンボリックなキリストという意味っていうのが当然その集団性の中で空虚化するわけだよね。

 

あたかも同じ志を持って来ているようで当然個々の理由とか個々のキリストとかもっと言えば個々の聖書の解釈なんて一致してるわけがないわけだしどのくらいの深さで理解してるのか?なんてのを言い出したらキリがないよね。

 

ただまぁそこでキリストというアイコンがポピュリズム的に作用するんだよね。空虚なシニフィアンとして人を集めたりする格好の道具になる。まぁそういうのをカトリックは利用してきたわけだよね。だからあんだけガチガチの権力機構になるわけだ。別にまぁシニフィアンの空虚性という意味ではプロテスタントも同じようなもんだよね。

 

だからこそ!なんだよね。カトリックが言うような教会に来てキリストと関係を持ちなさいってことじゃなくて個と神なんだよね。かといっても別に教会を批判する必要はないんだけど世俗的なものというか社会で機能しているものに期待できるわけないよね。

 

むしろそんだけ神学的にエクストリームだったら現実の社会との兼ね合いが悪すぎるわけでまぁそういうエクストリームの一つの形態が修道院っていうことなんだろうけどまぁそういう意味で修道院を理想化しちゃいけないけどまぁ恐らくちゃんと実践できてるのは一部の修道院なんだろうなっていうまぁ修道院側から見るとセルアウトしたような修道院ばっかでめっちゃ真面目なところは本当に少ないらしいんだけどまぁ宗教とか思想ってそういうもんですよね。

 

そういうのを分かりやすい集団とか学閥とか教団みたいなのに属せず個で実践をするってのはなかなか難しいよね。近代とは言わずに恐らくもうなんつーか社会の基本が経済になったなんてことを言い出すと中世とかもっと前からそうだったわけでそんな中で必ずしも経済性とか経済的な合理性に直結しないような、もしくは反するかもしれないようなことを実践し続けるってのは大変なことなんだけどでもそれを経済的な実利が無いプラグマティズムとして考えるなら例えばそれがちゃんとした学習と実践と知識に裏付けられたものならその人が生きるということがキリストの体を意味することになるよね。

 

それは代理人とかということではなくて体を形成する個として生きるということになるんだよね。でもこの構造ってさ、何もキリスト教に限ったことじゃなくてそこがまぁさっき書いた個別の11人みたいな話だってことなんだけど恐らくこれは思想全般のプリンシパルなんだと思うんだよね。

 

ってことでまぁ終わったんだけど貼るときになんか最初につけたしで書いてたらそれがまた例によって長くなったんでそれはまた明日貼るわ。

 

んじゃまた。

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