ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

悪について。

今回は続きではなくてちょっと書きたいことがあったので書いたので。

 

例の事件ね。ああいうのを見ると全ての人に救いがあるとか恩寵があるみたいなその辺の神父とか牧師が説教で言いそうなことがただのきれいごとだってのが改めて分かるよね。もちろん俺はそんなわけねーだろ!って元々宗教嫌いだからそういう俗っぽい宗教者の話とかは眼中にないんだけどまぁ結局俺の考える宗教ってアヘンみたいなきれいごと聴いてればfeel goodになるようなものじゃなくてリアルのリアル過ぎる認めたくないようなことに向かっていくっつーものでまぁようは普段書いてるような誤魔化さないということなんだけどそこでまぁ悪の問題っつーのがさ、それは被造物が勝手にやることだみたいな色々な言い方はあると思うんだけど純然たる悪とか悪の行為っていうのがただ単に存在するっていうことから目を背けちゃいけないんだよね。

 

それを自分のこととして受け止めるっていうことでまぁSan値削れるし鬱にもなるけどアヘンみたいな意味での綺麗事だけの福音とか解釈ってのは退けないといけないよね。まさにそこがなんつーかユダヤ系で言うところのホロコーストでさ、ホロコースト以降ユダヤ人のユダヤ教離れというのが凄まじく加速したんだけどまぁそこでホロコースト以降にも信仰を保ち続けるようなことってまぁ例えばレヴィナスとかがそういう思想的活動をしてたんだけど日々ホロコースト的な信仰とかがぶっ飛ぶような出来事って世界で起きてるわけでさ、そこでいかに信仰を保ち続けられるのか?っていうようは神学が現実にどうアクチュアルに対応できるのか?っていうところだよね。

 

自分は主観的に召命を受けた感じがしていたり恩恵を感じていたりまぁようは召命によって認識が変わるっていうところなんだけどさ、でもほかの色んな悲惨なことを見ると逆になんで俺は殺されなくて罪のない子供が殺されなきゃいけないのか?っていうことになるよね。そこはまぁ客観的に言えば運というかそういう場に居合わせなかったっていうことでもあるんだけど事故とか災害ならともかく動機があまりに不明な不条理な無差別殺人ってのがなんで起こるのか?というよりかは当然そういうことも含めて世界って何なんだろうか?って考えるっていうことだよね。

 

まぁそこでやっぱり護教的な悪の論理とかではなくてなぜ悪が存在して不条理なことが起こるのか?っていうそこに向かうっていうところだよね。でもそれは悪はゆるさん!というようなことではなくてなんでこんな悪が存在するのか?とか不条理が存在するのか?っていうところだよね。

 

神も仏も無いということがデフォルトでどう宗教的に生きていくのか?っていうことでもあってまぁベタな言い方をすれば自由だから悪も起こるっていうことだからこそより一層善の追求をしなければいけないということにもなるんだけどやっぱりそこでアーレント的な悪の陳腐さっていうことだと思うんだよね。完全なサイコ野郎がサイコな事件を起こすということはコモンセンスとの整合性があるんだけどサイコでも善人でもないような人が起こしうる純然たる悪っていうことだよね。

 

根っからのサイコ野郎が起こすべくして起こした事件ではなく良い人でもないけどかといってもサイコパスレベルというほどのキチガイでもない人が起こしうる悲劇だよね。今回の件はサイコの可能性が高いみたいだけどいずれにしてもそれが病気によるものなのか?とか障害によるものなのか?とか関係なしにどの道救いが無い話なんだよね。加害者がキチガイだったからしょうがなかった。事故みたいなものだと言われても納得できない。なんでそんなやつが生まれてくる必要があるのか?っていうことだよね。全ての生には価値がある的なことの脳内お花畑感というか生まれてきたのが間違いだったとしか言いようがない人っているでしょう。やっぱ。まぁ人間社会なんてそういうもんだって言われてもやっぱりなぜ?というやるせなさがあるよね。やるせなさ過ぎるからあんま考えないようにしよう!ということでしか認知整合性を保てないよね。

 

アーレントも言ってることだけど人はアプリオリに善を求めるみたいなナイーヴなことが哲学とか神学とかで当たり前の前提とされてきたことなんだけどまぁそんなのが崩壊するのがユダヤ人にとってのホロコーストとか例えば今の俺にしたらキリスト教に目覚めてからのまぁ世界では凄惨な事件が起こってるんだけどまぁ凄く身近に起こった胸糞悪いどころじゃない事件っていうところで衝撃的なんだよね。ましてやカトリック系の小学校の子供が殺されるってまさに神も仏も無いですよね。

 

まぁだから結局祈るとか神の道を歩むということはできてもそれをやっているからといってご加護があって不幸や悪から身を守れるみたいなそういうご利益的なことではないっていうことなんだよね。ある意味でなんでもありなアナーキーな世界に投げ込まれてショックすぎて生きる気が無くなるようなことがしょっちゅう起こる中でもそこで神の道を歩めるのか?っていうところだしナイーヴな神学が定義するような悪なんかに目をくれずに純然たる悪を刮目して学問的に善とか神学についてってのをやるだけではなくて当然善についてのことでもあるから同時に悪についてのことでもあるんだけど考えるとデプレッシヴになるから気分の良くなるようなことだけやりたくなるし目をそむけたくなるようなことを自分のこととして受け止めるってメンタルやられるけどそれをやらない神学なんてぶっちゃけ意味ないよね。

 

もちろん悪を専門に勉強するみたいなことではなくて色々なテーマとかサブジェクトがある中で心が荒むような悪についても考えなきゃいけないっていうことだよね。そこで神学なり宗教ってのがどうアクチュアルにワークできるのか?っていうところだよね。都合のいいことだけを並べて安心するとか嫌なことを見ないとか忘れるっていうことではなくて全力で実存的な問題として受け止める必要があるっていうことだよね。

 

まぁでもそれは俺にとってはキリスト教に目覚めて無かったら全力でそれを実存的に受け止めるなんてことはできなかったと思うんだよね。痛ましい胸糞悪い事件だしなんでそんなクズが生きてるんだろう?っていう不条理としてしか受け止められなかったと思うしこれがリアルなんだよなっつーところで終わっちゃうっていうかね、そこでまぁ今の俺の契機としてはそういったことに関する感受性とか受け止め方が神学とか宗教をやっていることで変わったというかね、それを今回は凄く顕著に感じたっていうところだよね。

 

だからまぁちょっと軌道を外してアーレントとかを再読してまた考えようかなと思いつつただまぁそれって軌道を外れるということでもないんだよね。むしろそれはメインの要素の一つだろうっていうことなんだよね。しかもまぁ凄く大きいサブジェクトだよね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。

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