ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

スノッブさんへの返信。

スノッブ

 

 

松本の発言については、単に属人的な部分で批判されていると思います。お前がそれいうか、、、的な。多分、ビートたけしが同じこと言っても批判されないし、(思考実験ですが)ノエルギャラガーが同じこと言ったら賞賛されたと思います。

 

大衆的なスケールで、言葉や論理が人間から独立して存在できるのは、自然科学かプログラムの世界くらいになっている気がします。

 

なるほど。そういう部分はあるかもしれないんですね。でもそれもある上で松っちゃんは踏み込んだことを怒りも含めてああいう表現をしたんだっていうことが理解されないのが腹立たしいと思うんですが、スノッブさんがおっしゃるその人間から独立して存在できるものっていうことなんですけどもまさに今の自分で言うところの神がそれに当たるんですけどもあくまでそれは信仰のレベルに留まるもので厳密に言えばまさにおっしゃるように自然科学か数学かっていう感じですよね。

 

いや、でも本当に良いポイントだと思いました。人間に倫理が従属しているからこそ例えば松っちゃんが言うと非難されるのにたけしなら称賛されるというような恣意性が介在するということですよね。つまりは言い換えてしまえば倫理という凄く大事なものがただのイメージであったり人間に従属した恣意的な概念になっているということですよね。まぁおっしゃるような大衆的なレベルで・・・ということなんですが。

 

これって本当に危ないことですよね。だから人間に従属しているからこそ例えば重度の障碍者を救うために健常者のインフラ的な保険が崩壊していく・・・みたいな話があったとしてそれは理念的には障害者を救うということになるんですけど実際のところ健常者のインフラまで壊れるぐらい障害者を優先して救うというのはどういうことなのか?って思うわけですよね。でもそれはヤバい話というか炎上案件というかそれなりの地位にある人なら干されるかもしれないような危ない議論でPCの観点から言わないようにするとかそういう話をパブリックではしないっていうことになりますよね。

 

まぁこのヤバい話を避けるということが一番危ないのではないかと思うんですよね。結局なぜ避けるか?というのがそれって究極的に言えば身の保身ですよね。そんなことを言えば信頼を失うとか個々のメンツのために語らなかったり考えなかったりするっていう臭い物に蓋をする的なことが重要なことまでもタブー視することになって本質的な議論や熟議がされないままなんとなくのPCに従属したままの倫理感覚でいるということですよね。

 

なんでも優生学に繋げるな!って本文で書いてるんですけどまぁでもはっきり言ってなんでも優生学ですよねっていうことなんですよね。例えば今書いたような健常者か重度の障碍者か?って考えたときにそれは社会のことを考えて健常者優先にならざるを得ないわけですよね。結局は社会的な生産性というところを基準にするしかない。もちろん命をそんな風に考えるなんてとんでもない!って話なんですけどでもそういうことを言いながら社会的な暗黙知の次元でそうなってますよね。

 

あいつは使える使えないだの税金払ってないなら道歩くな!的な言い方だの結局はこれって全部優生学ですよね。そいつがどんだけの生産性を持っているか?っていうしかもその生産性というのは例えば僕みたいな金にならないようなことをやるのではなくて社会に貢献というと大げさですけど金とか労働力という形の経済という形で社会に還元するっていうことですよね。全てが経済を軸に考えられるようになるんですよね。

 

結局これってダブルスタンダードですよね。倫理の面では良い面をしたいのかなんなのかとりあえず命はかけがえないものだとかって言うんですけど社会的なふるまいを見ると人を経済でしか判断してなくて不能なやつは使えないやつとして価値のないものという判断をしているわけですよね。公的というか社会的な言説とかパロールっていうと大げさですけども「俺はこう思うんだよね」っていうような振る舞いのレベルでは当たり障りのない言い方をしたり偽善的な言い方をするんですけど実は腹の底では不能なやつはみんな死んでくれっていう風に思ったりするわけですよね。


匿名掲示板なんかだと日本に限らず世界的にそうですよね。ヘイト的な言説とか表現然りなんですけどね。そういうのを表面的に規制するだけじゃなんの効果も無くて結局は何らかの論理的な落としどころとか整合性があるから生きていて良いやつと死ぬべきやつというのが篩にかけられるわけですよね。

 

でもこれって卑近なレベルで言えば究極的に他人か家族どっちかしか助けられないってなったら誰でも家族を助けるわけですよね。まぁ家族関係がまともな場合ということなんですけど。で、まぁそれを国家レベルにすると他国の人か自国の人どっちを助けるのか?っていうと自国の人になりますよね。

 

グローバルヴィレッジとかほざく御花畑脳の左翼とかは命は平等だとかって言いますけど大体の人間は国家の中で生きているわけでもっとミクロで言えば家族の中で生きているわけですよね。そういう中で理念的に命は平等だといっても人間として生まれてきたという必然からプライオリティをつけざるを得ないということがアプリオリに所与のものとして与えられているわけですよね。

 

例外もあるとは思いますが大体まぁそうですよね。簡単に言えばオリンピックで応援するのは大体自分の国でしょうっていうナショナリズムとかっていうと大げさですけど当たり前の感覚ですよね。もしくは高校野球で地元の高校を応援するとか自分の街から出た有名人に誇りを持つとかそういうことですよね。

 

ただそれも結局人間に従属した倫理の考えなわけで本当の倫理ってスノッブさんがおっしゃるような人間に依存しないような原理だと思うんですよね。それがまさに神の原理と言えると思うんですけどただそんな絶対的なものが人間に理解可能だとは思えないし中には直感に反するようなものというのもあると思うんですよね。

 

でもそういうある種意味の分からないもしかしたら超越論的なものかもしれない倫理というのにコミットしていくっていうことですよね。今読んでいるアーレントの「責任と判断」という本の中でも同じ話ではないんですけどカントと倫理のことが導入として書かれていて個人的にこれは自分が宗教に目覚めていなかったらここまで真摯に考えられなかっただろうなっていうものがあったりするんですよね。

 

その概念自体が宗教的なものではなくて宗教的な契機みたいな大きなものが無いと気がつかないことというかそこまで気に留めないことというか倫理がどうでもいいという話ではないんですけどただ人間にはどうにもならなそうな倫理に無理でもコミットしなければいけないっていう使命っていうんですかね。大衆的にはイメージとか恣意性に倫理が従属していて個人的感情とリアルな倫理の話とってのが分けられることなく恣意的に語られるというまさにその原理に無さとか一貫性のなさというのがグラグラな倫理感覚を生み出すんだろうなって思うんですよね。

 

そういうところを宗教というのは原理として定めるわけなんですよね。一見不可解でもそれはシンボリックな結局のことろは倫理や善に関わるようなことを守ってたりするわけですよね。でもそういう大事な倫理感覚が松っちゃんが言えばディスられてたけしが言えば称賛されるみたいな感じだと本当にヤバいと思うんですよね。

 

それこそ悪いほうに考えれば不能なやつを殺せ!ということをそれらしい人が指導者みたいになって言えばそれが称賛されるかもしれないっていうことですよね。まさにファシズムそのものなんですけどナチスの精神構造とか当時の人たちの時代精神って凄く重要だと思うんですよね。

 

完全な悪だったんだ!っていう歴史的な決めつけをして最初から悪というレッテル貼りをして考えたり学んだりするわけなんですけども当時の時代精神からすると普通の良い市民がナチスを支持していたりするわけでまぁもちろんホロコーストとか他にもいろいろとやっていたことというのが筒抜けでは無かったんで色々なことも粉飾されてマニピュレートされて絶大な支持を得ていたっていうことなんですけどそこでドイツの教会闘争の歴史なんかを見てもってまぁ見てもっていうほど詳しくなくて読んでいる最中なんですけどいかにもナチスを支持しそうな権力側の考え方をするような聖職者がナチスを支持していたというよりかはえ?この人が?っていうような人もナチスを支持していたりしてたんですよね。

 

で、その支持の理由というのが本当に怖いんですよね。ようはゲルマン精神的な当時沸き起こっていたナショナリズムというのがその熱狂と共にあたかも神が与えた必然みたいな錯覚すらも生み出すっていう歴史だけ見れば気持ち悪い話なんですけど時代から沸き起こるその時代精神を象徴するような雰囲気とか空気感ってあったと思うわけで共感性ってまさにそれなんですよね。当時自分がその時代のドイツ人で限られた情報の中でナチスへの期待とか熱狂があったりすれば自分も支持していたかもしれないんですよね。

 

今は悪だと分かり切っているからそんなことありえない!って思うわけなんですけどそれってまぁ実は共感性ゼロの話なんですよね。共感性があればその時代の人間に身になって考えることができるわけでまぁそれは共感性というより想像性という話でもあると思うんですけど、そこで例の事件の話に戻すと本文でも書いているように色んな積み重ねがあれば自分もヤバい人間になっていたかもしれないしそれこそ生まれということで言えば子供は親を選べないので全く違う場所で生まれていたらそれこそ不良品として生まれていたかもしれないわけなんですよね。

 

でも果たして不良品だとしてそこで児童を巻き添えにして自分も死ぬなんていうエクストリームなレベルまで振り切るんであろうか?って思うんですよね。まぁそこが完全に異常な猟奇殺人者とかと同じでヤバい人間になっていたかもしれないけど人を切り刻むことに快楽を覚えるような人間になるとはとても思えないっていう、そこの共感したり想像したりできるレベルのものとそうではない完全に別の境界線を越えたようなものに関しては本文でも言ってるようにそれはもう純然たる悪として認めないといけないと思うんですよね。

 

不幸な生い立ちでどうであれ踏みとどまっている人とか他人を巻き添えにしないで死んでいる人とかってのが大半なわけで自分も不幸な生い立ちだったらそうなっていたかもしれないなんていうレベルを超えているわけですよね。そういうものすらも生まれついての不良品なんてない!みたいな偽善的で恣意的な倫理感覚でそういうことを言うというのは原理のレベルでの本質的な倫理を全く考えていないやつの考え方だなって思うんですよね。

 

そう思いたいという認知的整合性を保ちたい!だとか左翼的な生まれついての悪は無いっていうただのイデオロギーですよね。でもこんなものは医学的に簡単に反証できますよね。それこそ脳の障害というレベルで例えば全く他人の痛みが分からないとか残酷なことを残酷だと思わないみたいなサイコってのは一定数人種とか時代関係なくいるわけですよね。

 


で、まぁそんなものは完全なるミステイクだから閉じ込めておくなりそういう遺伝子はもう残さないようにするとかっていうことをするしかないですよね。でもこれを言っても優生学と言われるわけですよね。子供を切り刻んだりばらばらにして食べて皮で服を作るようなやつにも人権はあるし途絶えなければいけない遺伝子というのはない!というような考え方ですよね。

 

ある種の宗教では神にミスはありえないから神の被造物での失敗作なんてなくてあるとすればそれは社会的なミスとか後天的な環境が与えた悪い影響のせいだとかってことになったりもしますよね。でもまぁそれこそ神学的に言えば色々と議論はあるんですけど一番しっくりくるのは悪というのは神とかと関係なく独立して存在するものだっていうことなんですよね。そこを認めるって凄く重要なことだと思うんですよ。いくら強調してもいいぐらい重要なことだと思うんですよ。

 

生まれついての不良品なんてない!というのもそれが宗教的であれ左翼的イデオロギーであれリアルな倫理とかけ離れたただの人間に従属するようなただの感情レベルでの倫理の話なんですよね。でもそれが宗教的であれ無神論的であれ悪は存在するということは認めなきゃいけないですよね。

 

それがどういういきさつだったか?というコンテキストを見定めてそういうような悪が発生しないように努力するというかそれに社会的な歯止めをかけるようにするだとかっていう努力は必要なんですけど松っちゃんが言う不良品というのはそういう整備とかのレベルではどうにもならない圧倒的な不良品というのは道具と同じで何百万個に一とかの割合かもしれないけど出てきちゃうのはもうエラーのレベルでしょうがないだろうっていう話ですよね。

 

でもそのエラーを認めるっていうことをそのまま悪を認めるということにすり替えてもいけないんですけど、僕が言いたい悪を認めることってまぁようはその認めたら恣意的な人間に従属しているレベルでの倫理では干されたり人からディスられてしまうような危うさを受け止めるっていうことだと思うんですけどこれってようはドクサと真理の話なんですよね。真理を語るものはソクラテスだろうがイエスだろうがどの道大衆に殺されるんですよね。真理ってそういうPC的にマズかったり大衆の反感を買うような面が凄くあるっていうことですよね。でもそれをしなかったら社会とか世界はどうなるのか?っていうことですよね。

 

そういうところをマキャベリアンっていうと意味合い的にサイコパスになっちゃいますけどマキャベリ的な政治決断主義というとカール・シュミットなんかも入ってきちゃいますけど結局はその決断っていうことだと思うんですよね。敵味方理論で言えばそれを政治的にするとマニピュレート的な意味合いが出来てしまうんですけど倫理のレベルでは明らかだと思うんですよ。

 

極めて悪に近いグレーってのは存在してて例えば詐欺師とか昔気質ではない近代的な外道なことばかりをするヤクザとかただのクズとか色々いると思うんですけど死ぬべきか?っていうと死ぬべきだという意見もあるとは思いますけど殺すまではいかないですよね。そういう人たちを集めてガス室に送れ!ということまではいかないですよね。でも海外の銃乱射にせよ今回の件にせよそういうレベルの人間ってヤクザとかよくいるクズの非じゃないですよね。

 

ヤクザとかクズは結構な確立でいるかもしれないけど無差別殺人をしてから自殺するなんていう人間は滅多にいないわけですよ。その辺にいるかもしれないなんてとんでもない話ですよね。その辺にいるかもしれないのはヤバいけど色々と踏みとどまっているかもしれない人たちで実際に行動に移すなんて人は滅多にいないわけですよ。

 

その滅多にいない完全なるエラーに対して社会は寛大じゃなきゃいけないのか?って話ですよね。明らかなエラーというか悪に寛大な社会って何なのか?っていう気がしてきますよね。その悪を認めずにそれは悪ではなくてそうなってしまった理由があるんだってそういう面があってもやったことはやったことですよね。同じような不幸な環境で育ってきてもトラウマを抱えながらも頑張って生きてる人たちってのがいっぱいいる中で環境が悪を生み出したんだ的な言い方って踏みとどまっている人たちとか不幸でも頑張っている人たちへのディスリスペクトだと思うんですよね。

 

あとまぁ爆笑の太田的な意識高い系の意見を言う人は本当にその想像力に欠けていますよね。本当にそういう外道の世界を知らないんだなっていうだからそんなことが言えるのだろうっていうメキシコの麻薬組織とか人身売買を平気でするような東南アジアとかのマフィアとかの同じ人間とは思えない異次元の世界を知らないんだなっていう圧倒的な無知がもたらす人間の本質に対して楽観的過ぎる意見ですよね。で、なおかつそういうことを言うことで自分の株を上げようとしているとかそうなんだ!っていうことで啓蒙するみたいな勘違いも甚だしい上目目線があるわけですよね。地獄を知っている元ヤクザの人とかがそういうのを見たらちゃんちゃらおかしいって言うと思うんですよね。

 

あとまぁヤクザと言えば被差別部落とかですけど被差別部落の人たちがどういう環境で育ってるのか?とかそれこそ暴力で色々解決しているとそこでは良いけど世の中的には捕まるってのが全く分からないまま成人するみたいなことも今はともかく昔はあったわけでそういう底辺のレベルで文学や芸術に触れたりしていればこれだ!というものが見つかって悪の道には進まなかったかもしれない!なんて意見は被差別部落の環境をナメるな!って話なんですよね。日々食うことと暴力ぐらいしかない環境で文学も芸術もへったくれもないわけですよね。文学や芸術に出会っていれば・・・云々の話ってもう典型的なブルジョワ的な意見ですよね。

 

別に本人たちは松本VS太田みたいな感じでやってる感じではないんでしょうけど松っちゃんのほうがそういう意味で貧困も太田よりかは知っているだろうしヤクザとかも含めた底辺の人たちとかがいるような環境で育ってきたという意味でリアリストですよね。太田の意見が共感を産むというのもそれだけ社会的リアリティ像が希薄な人たちが多いって言う証拠ですよね。

 

まぁ芸能人がああいったこういった的な話に突っ込む必要はないんですが(笑)この今回の事件のことといい松っちゃんが炎上して太田の意見は含蓄があるみたいに評価されるみたいなクソみたいなリアル感覚の欠如というのに危機的なものを感じたので書かずにはいられなかったというのが本心ですね。

 

長くなり過ぎたのでこの辺で終わりにしますけど例えばタイとかって死体の写真とかがスクープで載ったりするんですけど日本の報道ってこれはよく言われることですけど死への感覚が希薄なんですよね。まずニュースで血の海が写ることもないし切り刻まれた女児の遺体が公になることもないですよね。

 

そういったものが公になる必要はないんですが事件がただのある種の空虚な記号として例えばそれが負の連鎖で生まれたものであった・・・みたいな概念的な意味論で捉えられてしまっているが故に太田のコメントに称賛が湧くというのも死へのリアリズムとか修羅場の状況とか遺族の気がおかしくならないほうが逆におかしいぐらいの修羅場という言葉が足りないぐらいの究極的に精神的に追い込まれる状況とかっていうのが臨場感として全く伝わらないとか想像できないんだろうなって思うんですよね。事件がただの記号として捉えられているが故に犯人が青年時代に文学や芸術に触れていたりこれだ!というものに出会ったらそんな風にはならなかったかもしれない・・・みたいなリアル感覚が希薄な意見が支持されるというかそれが主観的リアリズムなんだとすると実際のリアリズムとの乖離が甚だしいなと思うんですよね。

 

まぁそんぐらいのリアル感覚でもやっていけるのが安全な日本ということではあるんですが最近はとりわけ宗教的な契機もあって悪の問題というのが自分の中で凄く大きくなっている中でこういう痛ましい事件があってそれでこういう世間の反応があって・・・っていうところに危機感を感じずにはいられなかったんですよね。

 

そういうわけで熱くなり過ぎているのは分かっているんですけどめちゃめちゃ長文で申し訳ないんですが返信を書かせていただきました。

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