ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

スノッブさんへの返信。その2。

スノッブ

 

返信多謝。

 

ただの感想になってしまうのですが、「重度の障碍者を救うために健常者のインフラ的な保険が崩壊していく」という話は、グローバル資本主義が戦争防止や貧困改善を後押ししている(FACTFULNESS的な話)一方、先進国マジョリティーの精神が荒廃している状態とダブります。

 

社会を包括する超越的な倫理は、大きな物語も無くなり、資本くらいでしょうか?なんだかんだ、多くの人間が共通する倫理観(カント的な)を持ってはいると思うのですが、金に目がくらみすぎてアル中みたいになってると思います(禁断症状も含め)。

 

以下はまとまりのない返信になってしまいますが、、

 

優生学については書かれていることを読んで、ハードコアに考えると、環境の作用や、対象のカテゴライズ方法により優劣が変化するので、普遍的レベルで優生学を採用することは不可能だと考えたのですが、歴史的に高い確率で割を食ってきた遺伝的要因はあると思います。

 

逆に、超越的な視点から、歴史や人間社会の限界が定義できれば、逆算して優生学を発生させる事ができると思うのですが、それは人間にはできないだろうと考えました。

 

今回取り上げられていた犯罪については、やはり犯人のルサンチマンが垣間見えると、そこに共感可能性が生まれると思います。ルサンチマン×メディアで共感が連鎖する環境に囲まれやすいので、注意したいところです。

 

更に、極端な(エクストリームな)犯行については、書かれているとおり純粋に不条理なんだと思います。それを取り巻く物語が必要とされるのも理解できるのですが、どんな物語が良いのかは自分は全然わかりません。死のリアリズムが社会に現れるのは戦争か災害の時くらいのものなので、なかなか良い道は思いつけないですね。。

 

先進国マジョリティの精神の荒廃はおっしゃる通りですね。それが地域や国や民族性によるものならともかくまさにグローバルな意味での現象としてそういうものが現れてきているというのはもうイデオロギーとか民度とか国民性とかとは関係ないレベルの話なんだっていうことですよね。

 

超越的な倫理ってまぁまさに今の僕が目覚めたキリスト教で言えばそのまままさに神でキリストということなんですがやはりそれが宗教的な信仰を求める時点で普遍足りえないのが弱いところですよね。おっしゃるように大きな物語は崩壊して久しいですし崩壊してなんか来るのか?という期待すらも無い感じですよね。なんかはあるだろうって思ってたらガチで何にもないままずーっとこんなのが続いていくのか!っていう悪夢ですよね。

 

そこで僕みたいに宗教的な契機を得た人間というのは本当に運が良いんだと思います。自分的に個人レベルでやりたいことが色々やれてやってこれたおかげで色々飽きて何やったらいいのか分からないっていう状態で精神的に死んでいてなおかつ状況的にも何も期待できることはなさそうだっていうまぁ社会的な意味ですけどもダブルで死んでるっていう中で宗教的な契機があったのは凄い延命だったんだなって思えます。それが無かったらどうしていたのだろうか?って多分あんまり長生きしなかったと思うんですよね。

 

ただまぁそこで逆に言えるのがそういった超越性って宗教の論理で言うところの神と私というまぁ最近読んで影響を受けまくっているブーバーの我と汝という関係なんですが、それは普遍性があるものではなくて何らかの形でのまぐれとか啓示とか出会いとか偶然の重なりで気がつけた場合にだけ認識のレベルにおいて存在するっていう言わばそれが実存と直結するようなもので逆に合理性からこれが超越性なんだって言い切れるようなものは無いということになるんですよね。まさに合理性から言えば資本ですよね。それが信仰を問わない意味での究極的な偶像的な神なのでそれを崇拝している限り今の世界の流れは変わらないということですよね。

 

ただそこでみんな出家したり隠遁すればいいのか?っていうとそれは無理なので宗教者が語るような悟りとか啓示というのは真理の一面を突いているにしても社会的に考えたときの実践性が無さ過ぎますよね。ただそこでのプラグマティズムというのがそれこそ現象的にミレニアル世代とかって言われるような世代特有の考え方に結びつくんだろうなとは思うんですよね。どの道、凄まじい金が転がり込むことも無さそうだし社会も変わらなそうなのでなんでも味気ない合理化をしてこだわりとかも排除するというか、それこそコスパが悪いものはどんどん避けていって生活のミニマル化と合理化を進めるという話ですよね。

 

まぁこれがミレニアル世代の考えの要約にはなってないと思いますがこういう風潮の残念なところは結局は価値観の軸が金になっているっていうところですよね。コスパという概念もいかにコストパフォーマンスを上げるか?とかより少ない支出でリターンを得るか?っていう金が軸になった考え方なんですよね。金に縛られたり崇拝したりしているのは何も資本家だけではなくて大抵の人が必要性が故にそれを軸に考えるようになってしまうということですよね。

 

ここが怖いのは別の宗教的観念から見ると資本家だろうか労働者だろうが基本金で動いているやつらは金という偶像を崇拝している言わばリヴァイアサンを崇拝している偶像崇拝者なんだ!っていう考えを生み出すということですよね。そういう論理が別な宗教から見れば成立するということで激しい敵対関係を産む契機になってしまうということですよね。

 

狂信者というのは狂信していることに気がつかないぐらいそれをナチュラルに崇拝しているという狂気なんだと思いますが、大半の人は金の狂信者ですよね。でもそれは構造的に金が無いと生きていけないようになっているのでそうならざるを得ないんですよね。結局そこでコスパというような資本家が搾取するような意味での権力的なお金の概念ではなくて小市民的なお金の概念から来るような価値判断というのもそこに金が介在しているという意味でコントロールされているので真に内的な自発性が無いんですよね。

 

金かかるかからない関係なくやりたいこととか欲しいものを言ってみなさいっていうところで答えられるものが言わば望むものだと思うんですけど大抵の人はお金を軸に考えるので自制をしたり無理だと考えたり合理性が無いが故にリアリズムが無いから避ける選択っていっぱいあると思うんですけどそういう数ある潜在的に存在する可能性というのが金という概念が故に消されているというのが由々しき事だと思うんですよね。

 

まさにスノッブさんがおっしゃるような金に目がくらみ過ぎて中毒になっているっていうことですよね。あと流行りのミニマリズムみたいなのも結局金を軸に考えている限り内発性によるものではないですよね。所謂清貧というのも中世思想とかはともかく世俗的な意味だと求めないことの清らかさみたいなことだと思うんですがこれも金が軸になり過ぎていますよね。

 

実際のガチの中世の修道士とかだとストイックというより神に仕えることを真に喜びと捉えていてそれに値するものが他に無いから他のことなんてどうでもいいというぐらい没入しているという感じなんですよね。アーレントも言ってますけどイエスとかアッシジのフランチェスコなんかはむしろ内発性から神に仕えるということをしていたんですよね。言葉を恐れずに言えばギャンブル中毒の人がパチンコにハマるのと同じぐらいのハマり型を神にしていたっていうことなんですよね(笑)

 

これってまぁ本当の福音だと思っていて実在した人物がギャンブル中毒とかアル中並に神にハマってずーっとそれを生涯やっていたというのが可能だったという前例があるということですよね。セレブになるか神に仕えるか?で神に仕える方を選ぶというのもそれが崇高だからということではなくて単純にそっちをやりたいからっていう内発性ですよね。セレブになるのを我慢するということではないところに言わば神を崇拝するということと金の崇拝を金輪際やめるということが繋がっているという気がするんですよね。

 

でも別にだから金に支配されてないし崇拝もしてないから別に使うも捨てるも自分次第なんで捨てる必要はないし金が入ってくるならそれに越したことはないという金が絶対的なものから相対的なただの貨幣というものに変わるということですよね。ただその崇拝というある種の洗脳からの脱洗脳が無い中で金なんて所詮はただの紙だとかって言っても何の説得力も無いんですよね。

 

まず崇拝を辞めさせないといけないんだけど実際に必要なのは金なのは事実なのでそこが難しいですよね。全ての病理は金が中心だからあるようなもんだって言い過ぎではないと思うんですけど逆に金があれば悩みの9割は解決するという場合、ようはまぁそれだけ金にコントロールされているということなんですよね。本当に恐ろしいですよね。それは金そのものの存在がそういうパワーを持ってそうしているのではなくて人の観念がそうしているというところですよね。

 

で、だいぶすでに長くなっているんですが優生学についてなんですけどおっしゃるように厳密に考えると普遍レベルでの優生学って不可能なんですよね。今劣っているとされる見地からそれを普遍に持っていく必要があるので実質不可能なんですよね。例えばまぁこれはロマンですけどアスペルガーが実は凄まじい能力を持っている!ということがだいぶ先に科学的に分かってどう能力を開眼させればいいのか?というような方法論が確立しているとしても今ならともかくまだこういうのが分からない時期に優劣を決めたらそれは厳密な意味での優劣にならないですよね。

 

まさにおっしゃるように超越的な視点からでしかそれは逆算できないので実質的に不可能なんですよね。科学は万能だといっても今の科学が最先端だという考えも所詮ただの相対的な考えにしか過ぎなくてそれは何千年後の科学の在り方も含めた考えじゃないといけないので何千年後の科学を考えたら今なんて縄文時代レベルのアナログ加減かもしれないわけですよね。

 

今に生きる人はハイテクだって考えることも未来から見たら恐らく大体ローテクなので(笑)そんなローテクの世界で人類の優劣というような超越的な神のような視点を得るなんていうことは不可能ですよね。いつかは可能になっても少なくとも今の僕らには関係ない話で当分は不可知論として扱わざるを得ない話だと思うんですね。まぁもちろん思考実験的にその超越的な観点からの逆算が可能であったら優劣をつけるのか?っていうような倫理の問題はありますよね。ただまぁ生きること自体にコストが発生しない場合、相当な迷惑をかけない限り勝手に生きろ!っていうことだと思うので実際はそんな崇高な倫理なんて必要としないと思うんですよね。

 

でも結局それも例えば優劣という概念も社会的生産性というような経済的な概念が大半なので特異点みたいな完全なエラーとしての存在ではない限り仮に生きるということに社会的コストがかからなくなったら変わる優劣って相当ありますよね。優劣をつけて劣を取り除くという概念は言わば経済的概念ですからね。最初の話で出てきた健常者を生かすために重度の障碍者を見放すということですよね。

 

でも生産性という概念が無になったら例えば体の強弱みたいなものすらもテクノロジーとかAugument的なものでなんとかなってしまえば生命に優劣なんてないというのが科学的に立証されると思うんですよね。というか実際はそうなんだけど今はそうなっていなくて弱者救済に凄まじいコストがかかっているということでどうすればいいのよ?っていうのが匿名なら弱者とか年寄りを若者を見放してまで生かす必要はない!って言えるんですけど公的には言えないっていうPCの重圧というのがありますよね。まぁコンプライアンス的とでもいうんでしょうかね。

 

 

そこでの倫理と実際の経済性とか財政の問題とかっていうのは倫理だけやってても極端な人権主義になって財政度外視でアンリアルなものになってしまうしかといっても経済を優先させすぎると弱者切り捨てという世界中で起こっているような経済が全てを支配するみたいな世界観になってしまいますよね。

 

そこでの倫理と経済との闘いというのも一見戦いのように見えて実は戦ってるように見えるというのがただのイリュージョンで両者の争いは実は観念的なものなんだっていうのは分かるはずなんですけどリアリティがそうさせないっていうところがありますよね。つまりはリアルはクソだっていうそのクソなリアルのクソ要因は何なんだろうか?っていうのを詰める必要があるんですよね。そこを取り除いてもクソはクソのままでもまだマシなクソになればいいんですよね。まずそれを目指す必要がありますよね。

 

ただ僕には神のビジョンがあるだけでそれが共有可能なビジョンか?というと全くそうではないので(笑)宗教モードではない無神論モードというか目覚める以前の自分のモードで考えるとまさにスノッブさんがおっしゃるように良い道は全く思いつけないですね。金の崇拝をやめろ!というのもあくまでそこで神を崇拝しろというとアレですけど神の道を歩めっていう話ありきでの金の崇拝をやめろということなんですけど無神論的世界観で果たしてそれができるのか?というとそれは有神論的だから言える話じゃないのか?っていう突っ込みはいくらでもできますよね。そこでの宗教的なものの現実へのアクチュアリティというのはどのくらいあるのだろうか?っていうのが今の自分の課題であったり単純に知りたいことでもあるんですよね。

 

ただアーレントみたいな特に宗教に依拠していない孤高の哲学者のような人でもどの宗教とは言わないけど神的なものの存在を忘れたことはないって言っていてまさにそこはカントが特にキリスト教云々出してこなくても哲学的に倫理を語れたのと同じ理由だと思うんですよね。でもカントにしてもアーレントにしても言葉には出さないけど神の存在なくしてはそういった倫理の展開は不可能だったということですよね。ニヒリズムシニシズムに抗えるのってむしろそれしかないと思うんですよね。

 

既成のキリスト教をディスりまくったニーチェにしても元は敬虔なクリスチャンですし深いキリスト教の理解があったからこそ全くそれとは乖離している実際の世の中のキリスト教に絶望してアンチクライストっていうレベルまで行ったんだと思いますよね。そういう意味での世の中の間違いだらけの戦争を起こすようなキリスト教は相変わらずクソなままなんでそういう意味では僕もアンチクライストのままなんですけどね(笑)だからこそ余計に求道感が増すんだと思うんです。

 

日本においてはキリスト教すらもマイナーなのにその肝心のキリスト教すらも何が間違いかはともかくとしてそれに帰依できるようなものではないのでさらにマイナーっていうことなんですよね。でもそこから見えてくるビジョンというのが明らかにあってそれが自分がどうのという小さいレベルではない世界がどうしていけばいいのか?っていうようなものを与えてくれるものだと思っていてその啓示を人事を尽くして天命を待つという感じなんですよね。

 

逆にまぁ人事を尽くさないような人に啓示は来ないと思っているので努力努力言うのは嫌なんですけど小さいことを言いだせばキリがないんですけどやはりそこは求道的にある種ストイックにやり続ける必要があるんだなって思うんですよね。まさに延命されたような無くなったような命なんでもうそれに捧げるしかないという感じですよね。

 

なんか近況の信条告白みたいになってしまってすみません(笑)でもそのぐらい自分の問題や社会とか倫理の問題なんかと直結することなんですよね。むしろそれとは関係なかったらここまで心を動かされることはないんですよね。こういう宗教的契機があったが故に絶望し過ぎていてあんまり考えなくなっていた社会や倫理などのことについて意識的になったというのもなんかのきっかけだと思ってるんですよね。

 

ただまぁ今の時代に必要なのは神だ!なんて言っても全く説得力が無いので宗教2.0じゃないですけど神を必要としない人の道としての宗教というようなもっとニュートラルに自然に生活に馴染むようなものはないものか?って思いますね。布教とかではない直に心に働きかけるような宗教性が無い宗教とでも言うんでしょうかね。まぁそれはまさにプラトン的なイデアということでもあるんですけどそこまで理知的で理屈っぽくない直感的な善って無いものか?って思うんですよね。

 

そういう意味でレベルの差はありつつも宗教的な文化が根強い国におけるその宗教が規定している善をその文化的な背景から自然にできるようになっているっていうのは凄いことだな!って思うんですよね。ただまぁそういう良い部分より宗教は負の部分ばかりなので本当の超越性があるのだとすればそれは文化に依存しないものなわけで、ただまぁそれが逆説的に神であるということなんですよね。でも神といったときに発生するシニフィアンシニフィエ的な話とかごちゃごちゃ過ぎるんですよね。歴史があり過ぎるが故にそのシンプルな超越性に届くことができないという・・・。

 

なんかまとまりがない感じになってしまいましたがとりあえず諦めずに考え続けるしかないなっていうまぁそのぐらいしかやることがないしそれがやりたいことになったというのは人間的な進歩だなって思えるんで今後も粘り強く取り組み続けたいとかって思ってる感じなんですよね。

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