ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

スノッブさんへの返信。その3。

スノッブ

 

返信遅くなりました。すいません!全体的に返信しようとしたのが、纏まらなくなってしまいました。

 

1点だけ返せるとすると、「ただ僕には神のビジョンがあるだけでそれが共有可能なビジョンか?というと全くそうではない」と書かれている部分。その通りで、理解が及ばないところです。ただ、そこから演繹(?)される論は、100%とは言わずとも理解ができます。

 

不可知論リバタリアンへと堕落を重ねた私としては、「考え続ける」という在り方は難しいとしても、「そういう在り方もありうるのか」と気づかされた点は良かったです。観念的に理解できても、リアルとして理解するのはなかなか難しいので。

 

 

それが堕落かどうかはともかくとして知的に誠実であればあるほどおっしゃるような不可知論リバタリアンや僕の場合はそこにネオコン的思想とニヒリズムデカダン的なロマン主義が入るんですが、基本的にそうならざるを得ないというところがありますよね。

 

だからこそそんな中で観念レベルでのコペ転というのが起こったというのはなんか一気にそれのおかげで今までの苦労とか「なんだったんだ・・・あれは」みたいな絶句するような経験とかも肯定できるようになったというか全てはそのための糧だったんだと思うと逆にありがたくなってきたりもするんですよね。

 

ただこればかりは体験と偶然性っていう考えていたり勉強していれば出会えるのか?っていうとそうではないような要素が多分にあるので本当にそういう意味で自分はラッキーだったとしか言いようがないんですよね。

 

ただそこで自分はラッキーだった!救われた!で終わるのではなくて押し付けがましい布教とかではなくこの感覚は共有不可能なものなんですけどそういった認識に立つことができるようになった人間としてまだ言えることがあるんじゃないか?っていうロゴスの可能性というのをナイーヴな意味ではなくて本質的な意味で感じるようになりましたね。

 

まぁそこがいつも僕が言う本来はまぁ隠居とか隠遁でもいいんだけどそうじゃないだろう!っていう街に出るソクラテスというような感じで(笑)別にそれは自分がソクラテスであるということではなくてあくまで対話とか社会との関わり合いの中で育むことができるものこそが共有可能な感覚というのを生み出したり認識できたりするものだと思うのでやはりそこは古代ギリシャ的な感覚というかそういうフィロソフィーの感覚というのは凄く大事だなって思うんですよね。まぁこれはデフォだと必ずといっていいほど隠遁モードになりがちな自分への戒めというか「そうじゃないんだぜ」っていうのを自分に言い聞かせるという意味もあるんですよね。

 

例えば自分は核戦争が起こっても大丈夫なシェルターに住んでいるけどそこで他の人がどうなってもいいのか?っていうそういうところなんですよね。かといっても己惚れて自分が伝えなければ!とか救わなければ!なんていう烏滸がましいことでもなくて、ただまぁまだやれることはあるだろうって思うっていうことですよね。そこがまぁなんていうかツァラトゥストラが下山したっていう描写を使って哲学を展開したニーチェの本領なんだと思うんですよね。

 

こういうところで自分の中でディオニュソス的なものとキリスト的・ヘブライ的・ギリシャ的なものとポストモダン的な感覚というのが統合される感じがあるんですよね。ただまぁそれで何をやっていけばいいのか?っていうのがすぐ分かるわけでもないんですけどニヒリズムと完全な決別ができるようになったというのは個人的にすさまじい進歩だと思っていてそこがまさに啓示に感謝!というところなんですよね。

 

とにかく色々と長い返信にお付き合いいただいて本当に感謝しています!また何かあったら是非書き込み宜しくお願いします。

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