ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

続き貼ろうと思ったけど雑談で。

オザケン先生の本早速届いたんだけど「奇跡の経済教室」のほうは1ページの文字数が良い意味で少なくて圧が無い分相当読みやすいんでおススメですね。んで「富国と強兵」のほうはガチな感じでただまぁキリスト教関係ディグり始めてからはガチなのしか読んでないからガチ中のガチに比べればまだ圧は少ないですよね。あとやっぱり書いてる本人が頭良いから明確に書くから分かりやすいんだよね。

 

あと何より俺がオザケン先生に惹かれるのは経済学者とか評論家という以前に思想家というところなんだよね。マジで何かに突き動かされて日本を変えようとしているっていうところだよね。そういうAttitudeとかヴァイヴスがある人って右左関係なく惹かれるよねっていうかまぁ僭越ながら同族だなっていうまぁ同胞だなっつーところですよね。

 

逆にだから軸が無いっつーか器用なのは分かるんだけど全く思想が無かったり何やりたいか分からない人とかってのは生み出してるのがどんなものであれ全然惹かれないんだよね。機会主義的と言っていいのか分からんけどその都度の世の中の需要とかに器用に答えてニーズを満たすみたいな安直な器用さには逆に嫌悪感を覚えるぐらいだわ。

 

なんつーかだからそれがどんだけ支持されるか?とか理解されるか?とかではないところでもうとにかくこれなんだ!っつーところでやってる人たちだよね。それは別に学者だろうがアーティストだろうが分野関係ないよね。

 

で、まぁ改めて思ったのがまぁ俺は今はっていうか今後は当分キリスト教一直線だと思うけどやっぱり市民のObligationというかね、最低限知っておかなきゃいけないこととか市民社会に生きるものとしての教養って必要だなって思ったんですよね。まぁそういうのに俺は昔からどっぷりなんだけど好き嫌いは別として最低限持っておかなきゃいけないリテラシーってのがあってなぜか労働って義務みたいな認識があるけどリテラシーが義務っていう認識ってあんまりないよね。

 

まぁ働いているということは別にいいんだけどリテラシーが無いとポピュリズムに操作されたりヘイトを垂れ流すようなバイアスがかかり過ぎたメディアとかに洗脳されたりとかするわけで最低限のレベルの教養ってもはや義務だよなって思うんだよね。でもそれはまぁやっぱり色んな意味で無理そうだし最低限といっても社会が成熟化していけばいくほど最低限といってもその水準は高くなるから理解できないという人が増えるよね。

 

だからまぁノブレスオブリージュのライト版っつーのかな?プチノブレスオブリージュ的な?もちろん学ばない自由とかね、難しいことに関わり合いたくないからずーっと遊んでいたいとかまぁそれも自由なんだけど結局、その根本的な自由を担保するものは何なのか?っていうとやっぱり市民社会でしょ?日本はそういう意味で路上で殺し合いをするような野蛮な文明レベルじゃないわけで文明国としての矜持ってのを持たなきゃいけないよね。

 

失礼な比較なんだけどまぁやっぱり相対的に考えるとアヴェレージのレベルは高いわけですよ。アメリカみたいな上下の格差が恐ろしい!っていうほどのアレは無いからこそ自由をエンジョイするためのある程度の教養っていう義務が必要なんじゃないか?って話ですよね。自分がどんだけ勉強してて頭良くても周りが野蛮人だらけじゃどうにもならないわけでそういう意味でのレベルの低さの絶望ってめっちゃ低い国に比べたら全然いいんだよね。

 

アメリカとか下層が終わり過ぎてるからどう足掻いても無理なんだよね。だからああいうパワーポリティクスっつーか実質の寡頭制みたいなのでやってかないと回らないって話なんだけどまぁさすがに民主主義を見限ってだいぶ経つしもはや民主主義はオワコンというのは割と共通認識だと思うんだけどでもまぁやっぱ国民の教養レベルが低かったらどうにもならんのだよね。

 

オザケン先生の本の受け売りになるけどまぁあえてああいうエクストリームな言い方をしてるんだろうけど主流の経済学者達のほぼ大半が間違ってるから経済がめちゃめちゃなことになるだとか貨幣に対する理解が無いだとかまぁこれは経済学に限った話じゃないよね。こういう高度な話じゃなくても最低限知っておかなきゃいけないことの理解すらも無いと色々ととにかくダメになるってのは恐らく普遍的に正しいでしょう。だからこその自由の技巧っていう意味でのリベラルアーツなんだよね。

 

トートロジーみたいになるけど日本ってまぁ独特の文化があるわけでまぁそれは伝統的なものに限らずサブカルとかアニメとか日本独特のものってあるわけじゃない?それってまぁ文明がある証拠なんだよね。人口の8割ぐらいが野蛮人の国からは文化は生まれないわけでなんだかんだでまだまだ日本は文化の発信地なわけでそこは誇れるところなんだよね。だからまぁあんま日本はもう終わりだ・・・とかって思わずにどの道日本で生きていくならまぁそれ相応の教養を備えてないといけないよねっていう義務ってことになるんだよね。

 

まぁ言いたいのは働いてるんですか?みたいなことが市民の最低限の義務みたいな圧力があるけどまぁそれは関係ないんですよ。それはただの個人の経済の問題なわけで働いてなくても食っていける人もいれば親に寄生している人もいれば色々だと思うしこれはまぁBI的な議論にもなるんだけど前にも書いたけど労働力を売るっていうことが必ずしも必須になるとは限らないわけだよね。今後は。

 

ただ依然としてやっぱり教養の義務ってのはあるわけよ。それが無いと沈没するからね。リアルに。多すぎる労働の義務から解放されてもっと色々と文化的なものを育むとか勉強するだとか別にこれはオザケン先生の本と関係ない話なんだけど俺が考える富国ってこれなんだよね。金がどうのではなくてとにかく賢いとか頭が良いとか教養があるっつーところがつまりはリアルな富というかキャピタルなんだよね。

 

 

キャピタルってまぁ拠点みたいな意味もあるわけで何かを生み出す拠点ってまぁつまりは知恵ですよね。あとまぁ温故知新的な過去の人類の知的財産というのを吸収している人間っつーその球数がキャピタルっつー感じだよね。だからそれって労働力じゃなくて知力なのよね。知がキャピタルなんてまぁ別にそんなの経営学とかの本に書いてある自明なことなんだろうけどそれは別に会社とか何かをやる組織とかに限らず国家にとってのキャピタルってのはそういう教養を兼ね備えた市民の頭数ってことなんだよね。だからまぁそういう聡明な市民がどうしようもないやつに足を引っ張られて潰れちゃうとか他の国行っちゃうとかそういう風にならないようにしないといけないよね。

 

潰し合いって別に日本に限らない話だけど相変わらずやっぱり出る杭は打たれるって感じだし出る杭も出過ぎると叩かれなくなるんだけど出始めぐらいの叩きが凄いからいかにそれに耐えるか?とかやり過ごすか?っていうところになるんだよね。まぁそういうのを叩かないで富国っつー概念で伸ばすとか応援するっていうまぁエンカレッジするっていうことなんだけどそれが国家の行方を担ってるって考えるとそういうキャピタルの頭数になるようなポテンシャルを秘めた人を潰すなんてのはとんでもない国賊ってことになるよね。

 

もちろん個人のモラルという問題でもあるんだけどすんげー小さいことなんだけどキャピタルであることには変わりないわけでそれはつまりはそういう人間を伸ばすっつーことが国益ってことなんだよね。まぁだいぶ日本って村社会からは脱却しつつあるけどやっぱりまぁ古い年代の連中とか見事にそういうのを継承しちゃってる人たちってのもいるわけでそういうやつらに邪魔されないようにするっていうまぁ人生の自己プロデューースっつーかさ、まぁーダメだこいつらって見限るのって大変だったりするんだけどそこはまぁ孤独を恐れちゃいけないわけだよね。逆にまぁそんな連中と群れたりしている自分ってどうなの?って思わなきゃいけないわけでね。

 

なんか続き貼ろうと思ったけど長くなったから今日はこんな感じでいいや。んじゃまた。

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