ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

pathographさんへの返信。

pathograph

 

ミミセミさん、はじめまして。
20台前半の一番苦しんでいた時期によく熟読していた1リスナーです。ミミセミさんからは沢山の教養や共感、知的好奇心のディグり先を教えていただいたと思っています。

 

いまでは苦学の末に臨床心理士になりましたが、この私の意識はなぜ現象学的に存在するのか?というおぼろな虚無は相変わらず通底してあります。最近は神即自然のスピノザに救いを求めています。よければ意見交換というかレクチャーしていただけませんか?

 

この場が知識探求のお役に立てたのは凄く光栄に思います。その上、臨床心理士になったなんて凄いですね!

 

で、いきなり本題に入りますけど意識の問題に関してはそんなに詳しいわけではないんですが、イーグルマンの「意識は傍観者である」とかダマシオの本とか所謂脳関係の本と認識論と哲学がクロスしたような題材のものは結構読んできましたがぶっちゃけこれといった決定打になるようなものは無くて最初に書いてしまうとずばり「分からない」ということに尽きるんですが(笑)この辺の話はAIと心みたいな最近のAIブーム系の話題でもよく取り上げられますけど、僕が関心があるのは意識もそうなんですけど心なんですよね。

 

相変わらず心療内科に通って薬を飲んでいるんですが先生に「脳に電極を埋め込んで鬱を治すみたいなのがありますけどあれっていいなーって思うんです」って言うと先生は脳=心ではないということを必ずおっしゃいますね。僕がなんで脳に電極を埋め込みたいのか?と思うのかというと鬱の日内変動なんかで典型的に見られるような起床後のこの世の終わりみたいな気分とかこれといった理由もなく妙に落ち込むみたいなことがあったときに僕はそれは脳のどこかは分からないんですけど(笑)普通に機能しているべきところの機能が低下したりするのが原因だっていう言わば機械論的な考えをするんですよね。

 

いや、実際にそれは実感としてそれがあるっていう感じなんですね。あーもう完全に脳ダメになってるわーっていう実感があるので電極なりを埋め込んでちょっとビリビリさせればそこが活性化されて意味不明な鬱が消えるんじゃないかと思っていますっていうかまぁそういう治療法もあるみたいなんですよね。リアル鬱の人は本当に辛いのでリスクのある脳外科手術なんてなんとも思わないと思うんですよね。そのぐらい症状が辛いわけです。

 

でもその一方で僕が最近また特に書くようになった客観的な虚しさとか年齢的なこともある色々と経験を重ねて若いころだったら満足していたり楽しかったことなどにもう楽しみを感じなくなってきていて、まぁ最近で言うとCODの新作なんですがまぁそりゃFPSなんて何年もやってれば飽きますよね(笑)やり始めの頃のマルチのドキドキ感とかなんてもう無いわけなんですが、それは何にしてもそうですよね。めちゃめちゃ旨い肉を食べても食べると慣れますよね。それでも食べたくなりますけど旨いものにも限りがあるなと思うとこれまたデプレッシヴになる感じがあります。

 

洋服なんかもそうですよね。これだ!というのを手に入れるときは楽しかったり見つけたりしたときは気分は高揚しますけどストライクゾーンのものを手に入れるとなかなかそういうものはないのでそんなドツボなものを見つけるというのは滅多にないしあってももう持っているとかまぁ経験と同じですよね。これも慣れてしまうともっていなかったときみたいなワクワク感はないわけですよね。でもまぁ本当に好きなので洋服には相変わらず使えるお金のほぼすべてをつぎ込んでいますけどね(笑)

 

これも機械的に考えると例えば買い物とかってドーパミンだかなんだか多幸感を得られる物質が大量に放出されるとかで、専門家のpathographさんに言っても釈迦に説法で申し訳ないですけども現象だけ見ると麻薬を打っているようなものですよね。それが本当に好きで感動しているのかドーパミンが出ているから幸福に感じている結果、好きだと思い込んでいるのかこの辺の境界というのはいつも気になりますね。まぁそれが客観視できているので無駄遣いなどはしなくなりましたけども。

 

じゃあそこで「好き」とは何なのか?っていうところになりますよね。ここがやはりズバリ心の問題で脳がどうのではないところの人間の部分なんだと思うんですよね。でもそこは別に分析しなくてもよくて好きだったら好きでいいんですよね。もうそれでそれに凝り倒せばいいと思うんですね。

 

でも逆にそういうものが無いと自分とロボットやAIとの違いがそこまで鮮明じゃなくなるといいますか、合理性とか論理ではないところに心の本質的なものがあると思うので、だからそこは脳云々でもないだろうとは思いつつも実際は手法として洗脳然りですけど脳を弄ることで好きなものとか嫌いなものを操作できたりもするわけですよね。

 

だからそこでロボットと人間はどう違うのか?っていう話になるんですよね。あとはまぁAIが進化していけば心を持つようになるのか?みたいな昔からSFで扱われてるようなトピックですよね。pathographさんが詳しく書いてくださったわけではないんですが「神即自然のスピノザに救いを求めている」というのは凄く分かる気がするんです。

 

神即自然だからこそ人間は人間であるというシンプルなことですよね。これって凄くスピリチュアルに聞こえますけど僕が去年から改心したキリスト教でも神と人間との関係こそが人間のオントロジーということになっているんですよねっていうかまぁこれはキリスト教内部でも色んな派閥があるのでキリスト教オントロジーはこうであるとは言い切れないんですけど僕が傾倒する理由もまさにおぼろげな虚無がありながら個人的にハッとさせられる契機が色々とあって開眼したという感じなんですが、最近再読している西田幾多郎なんかもスピノザの神即自然の話はよく出してくるんですよね。

 

で、まぁ凄くざっくり書くと禅のオントロジーと似ているところがあるというか、エックハルトなどの東洋思想を経由していない独自に神学などから出てきた神秘主義的な無我ですよね。

 

無我=無限というわけではないのですが、スピノザが言うような神の無限というのはつまりはそういった性質とか属性を表すもので無我ということも無限という属性の中に入っているかもしくは同一かそもそもこういった通常の概念的な考え方をすること自体が間違いなのかもしれませんが、恐らくpathographさんがおっしゃるスピノザに救いを求めているというのもそういった漠然とした無限との同一感なのではないかな?と思うんです。違ったら色々と突っ込んでください(笑)

 

ユング的な自己を掘り下げていくと根底には通底している人間同士が繋がっている無意識というのがあるというような考え方がありますが、意識の問題は分別しようとするから混乱が起こるのであって分別しようとしなければそれは無我であって意識でもないということになると思うんですね。スピノザで言えば様々なものが原因してトリガーして行動や考えが起こっているのであって人間が思うような「これ」といった意識というのは実は存在しないというか、西田的な概念で言えば非連続の連続なんだと思うんですね。

 

「これ」と指そうと思うともうそれはそれではなくなってしまっているというようなものですよね。それは意識に限らず存在も同じでもちろん細部のディティールは違いますけども存在や実存や現前性みたいなものも「これ」と名指ししようとするとすり抜けるような性質があるようなものだと思うんですよね。ではなぜその指そうとする行為が成立しないのか?というのがつまりは神即自然であり無我でありスピリチュアルではない西田哲学で言うところの宇宙との合一のようなものだからということだと思うんですね。

 

でもそれは答えでもなんでもなく依然として問いとして残り続けるような性質のもので、特に意識に関しては最初に書いた脳に電極を埋め込む的な機械論的なものと人間のファジーな心という間にある関係性というか隙間というか境界というものは脳科学やAI研究などでより分かるようになってくるとは思うんですね。でもそこで西田やスピノザが考えていたような哲学が覆るような自我論というのが科学によって成立するのか?というと成立しないわけでそこは漠然と科学的に言っていたわけではなくてあくまで哲学であったのだけど科学によって部分的に妥当性が証明されたみたいなことになるんだろうなと思うんですね。

 

僕が帰依するキリスト教というのも旧約聖書的な人格神のものではなくてスピノザ的なものです。で、中世にエックハルトのようなキリスト教思想家がいてむしろ中世ぐらいの時に答えは出ていたというような感じがあるんですよね。ただ全然世の中は追い付けていないという感じで、ただ西田が言うような宗教というのも一般的に想起されるような宗教ではなくて大いなるものといったような漠然としたものに対する学問といったニュアンスだったと思うんですね。

 

そういう意味で自分のある種の宗教体験は小室直樹の本に書いてあった庵を結ぶという説明においての空の概念を理解したときで、それでその後にカントール集合論などにも似たようなものを感じて、んで実際にカントール関係の本を読んでみるともちろんその集合論や無限の概念は数学的なものであるけどカントールの宗教観とは切っても切り離せないところにあったというところに概念の普遍性を感じたんですよね。言わば極めて論理的ということですね。

 

宗教的というとうさん臭かったりスピリチュアルっぽかったりするんですけど本来の宗教性というのは大いなるものに関する人間の学問というかそれを神学と言っていいのか分からないんですけど特定のこれといった神などが出てこない禅の思想とエックハルトのような思想家の思想に類似があるというようなところがつまりはもう論理的なんですよね。

 

凄まじくスピリチュアルに見えるんだけど論理的という意味だともっともスピリチュアルっぽい思想家ってやはりプラトンキリスト教の特に新約聖書以降の神の概念や善とか心の涵養といった概念はプラトンからの借用が多いわけで、また自分の話になってしまうんですがレオ・シュトラウス経由からプラトン思想に目覚めた自分にとってキリスト思想への開眼というのも全く断絶が無いものという感じがしているんですね。まさにそこに救いがあると言う感じです。

 

思ったより長くなってしまったのでそろそろ終わりにしますけども(笑)神即自然が事実であったり僕の今の世界観で言えば神の恩寵みたいなのも事実であったとしても基本的にそれは可視化されるようなものでもなければ「ああ恩寵に満ち溢れている・・・」なんて感じられるものではないんですよね。それが救いになっているのに心は救われない感じがしたり何かしらの虚無感があったりするんですよね。

 

つまりはそれが意識というものなんだというところに尽きると思うんです。無限について考えられないとか思いをはせられないとか考えすぎると気が狂うとか(笑)だからその辺の調停としてスピノザはずばり善をコナトゥスという人間の活動力を増すものという風に定義していたり西田の善の概念にしても心を掘り下げた上で見えてくる境地にコミットするというようなことだったりすると思うんですよね。まさに知行合一というやつです。ただの机上の空論なのではなくそれは行為として現れるということですよね。

 

それが分かっていても依然として虚無感は消えなかったり虚しさを感じたりする・・・というのは一概に心の問題だけでもなくて今の世界の時代精神でもあるのかな?と思うんですね。最近書いている資本主義末期で飽和していてみんな虚しさを感じる時代になったというようなことですね。

 

この辺もどの辺までが心の問題でどの辺までが資本主義末期の飽和によるものなのか?とかって分からないですよね。ただまぁスピノザではないですがそれが何によって引き起こされているのか?ということを分析することはできますよね。自分が実験的に20年前ぐらいに渋谷にレコードハンティングしていたときに聴いていた感じの音楽と同じものを聴きながら渋谷に行ってレコードハンティングして街を歩いてみるなんていうことをやっているのも分析の一環なんですよね。なんで今ウキウキしないのか?ということですね。まぁそれは複合的で一般的な問題もあれば個人の問題もあるのでなんとも言えないんですけどただこのつまらなさに耐えられないので一体何なんだ?これは?というモヤモヤを少しでも解消できればいいなとは思ってるんですけどね。

 

まぁそれが解消できたところで楽しくなるわけではないんですが(笑)モヤモヤを放っておくよりかはマシだろうという一種の足掻きですね。

 

いつも通り話が脱線してそれが長くなったりしましたが大体こんな感じなので返信があったら是非よろしくお願いします。全然ゆっくりでかまいませんので気が向いたときにでも返信してやってください。

 

それではまた。

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